第6話:悪を討つ、重厚なカウンターと上がらない尻尾
第6話:悪を討つ、重厚なカウンターと上がらない尻尾
午前9時15分。
最上階の重厚な一枚板の扉が開き、経理部長の佐々木が足を踏み入れた。
「……黒川会長。お呼びでしょうか」
無駄な肉の一切ない、屈強でエリート然としたドーベルマンの佐々木。だが、その顔色は土気色に濁り、自慢の精悍なマズルは浅く早い呼吸を繰り返していた。
無理もない。今朝、彼が自席のキーボードで見つけたパスワードの付箋と、送金キャンセルのエラーログ。さらにそこに意図的に残されていた『スイートダブリン』のタバコ葉の残り香。彼をこの部屋へ引きずり出すには、それだけで十分すぎた。
革張りのソファでは、フレンチブルドッグの黒川会長が、モンテ・クリストの太い葉巻を――呼吸器が弱いため火はつけずに――ただ威厳たっぷりに咥えている。そしてその脇の丸椅子には、俺――冴えない営業2課のパグ、山田がちんまりと腰掛けていた。
「な……山田くん? なぜ君のようなヒラ社員がここに……」
「佐々木。茶番は終わりだ」
佐々木の狼狽を、黒川会長の低いダミ声が制圧する。
会長の顎での合図を受け、俺は黙って手元のクリアファイルと、一本のUSBメモリをテーブルの中央に滑らせた。
「特権階級である大型猫型獣人のダミー会社と交わした裏金送金の予約ログ、およびボートレースのオンライン投票口座を経由した資金洗浄の全データです。……昨夜、あなたのパソコンの隠しフォルダから拝見させていただきました」
俺が淡々と告げると、佐々木はエリートの面影を捨て、鋭い狂犬の眼光で俺を睨みつけた。
「……ハッ。お前のような無能なパグが、夜中にこっそり拾い集めたゴミか」
佐々木は長い前足を静かに伸ばすと、テーブルの上のUSBメモリを無造作に掴み、革靴のヒールで粉々に踏み砕いてみせた。
「これで証拠は消えた。……お前のような平社員の妄言など、誰が信じる? 名誉毀損で人事委員会にかけてやるぞ」
冷ややかな笑みを浮かべる佐々木。だが、俺は愛想笑いを完全に消し去り、パグ特有の濁った瞳で彼を見据えた。
「……だから、俺をただのパグだと思わないことです。あなたが今踏み砕いたのは、空のダミーUSBですよ。……本物のデータは、昨夜の時点で田中の協力により、社内便の暗号化回線を通じて会長のプライベートサーバーへ同期済みです」
「なっ……!?」
完璧に裏付けられたデジタルログと、逃げ道を塞ぐロジック。その圧倒的な事実の前に、佐々木の巨体はふらつき、ついに膝から崩れ落ちた。極度のストレスで激しいパンティング(喘ぎ)を引き起こし、口元からはみっともなく涎が垂れ、精悍だったドーベルマンの姿は見る影もなく萎れていた。
「……監査委員会にはかけん」
火のついていない葉巻を弄びながら、黒川会長が冷酷に告げる。
「会社の株価に傷がつくからな。横領分は全額、お前の個人資産から補填させる。その後、自己都合でひっそりと消えろ。……行け」
すべてを失った佐々木は、幽鬼のように力なく立ち上がり、ふらふらと会長室を出て行った。
重厚な扉が閉まった瞬間、部屋に静寂が戻る。
(……ふぅぅっ、終わった……!)
俺は心の中で盛大に安堵の息を吐き出した。足はがくがくに震え、極度の緊張から気管がひゅーひゅーと惨めな音を立てている。
「ご苦労だったな、山田」
「はっ……! ありがとうございます、会長! あの、これで……お約束の極上の昼飯を……!」
昨日の昼からまともな固形物を口にしていない俺の胃袋が、期待にちぎれんばかりに鳴る。最高級の特選大豆肉のステーキか、それとも猫型富裕層向けの闇ルートから仕入れた鮮魚か。
黒川会長はデスクの引き出しから、ずっしりと重みのある豪華な木箱を取り出し、俺の胸元にぽんと投げ渡した。
(特別ボーナス……!?)
汗ばんだ太い指先で箱を開けた瞬間、俺は息を呑んだ。
中に入っていたのは、大型猫型獣人への贈答用に作られた特注品『超高密度・ソイレジン(大豆樹脂)製の巨大レプリカボーン』だった。犬の経済力では到底買えない高級品だが、顎の力が極端に弱いパグが本気で噛み付けば、間違いなく前歯がへし折れる代物である。
「……会長、これは?」
「噛み砕けとは言わん。デスクに飾っておけ。お前がこの会社で悪を噛みちぎった証拠だ」
会長はくすりと笑い、ノートパソコンへ視線を移した。
「それと……急げよ山田。先ほど営業1課のチワワどもが、また取引先のマスティフに噛み付いて特大のクレームを起こしたそうだ。お前のその『反省している顔』で、今すぐ火消しに行ってこい」
「…………ヒュゴッ!?」
絶望で目の前が真っ暗になる。
悪を討っても、会社は何も変わらない。
俺の胃袋が満たされることも、俺の社内地位が上がることもない。
あるのはただ、終わりのない平謝りと火消しの日常だけだ。
「……い、行ってまいります……」
だが、俺の胸のポケットには、昨夜勝ち取った真実の重みがある。
今日も今日とて、俺の短い巻き尾はだらりと垂れ下がったままだ。だがその足取りは、昨日までの頼りない足取りとは、ほんの少しだけ違っていた。




