第5話:深夜の侵入と、紫煙のダブリン
第5話:深夜の侵入と、紫煙のダブリン
投稿日:2026年4月5日(日)
極寒の冷気浴で覚醒した俺とペキニーズの田中は、冷たい港風を切り裂いて本社ビルの裏搬入口へと辿り着いた。
深夜のエントランスを固める強固な電子ロックなど、平社員の権限で開くはずもない。だが、田中が日々の社内便業務で熟知している「大型荷物の搬入時、閉まる直前に数秒だけセンサーが死ぬシャッターの隙間」を狙い、俺たちは身をかがめて泥臭くビル内へと滑り込んだ。
しかし、最大の障害はそこからだった。
深夜のロビーに、ドーベルマン隊長が撒き散らす特有の攻撃的な体臭と、重い革靴の足音が響く。
「……山田係長、奴の嗅覚ならすぐに気づかれます。俺が陽動をかけます。先輩は佐々木のデスクへ!」
バキバキに仕上がった筋肉をスーツの下に隠した田中が、小声で告げるなりロビーの反対側へ向かってわざとらしく備品のゴミ箱を蹴り倒した。
「誰だッ!」
怒号とともに、ドーベルマンの巨体が田中の影を追って闇へ消える。その一瞬の隙を突き、俺は低い体勢のまま無人の経理部フロアへと転がり込んだ。
深夜0時55分。オンラインのボートレース投票口座を経由した闇口座への一括資金洗浄処理が行われる深夜1時まで、あと5分しかない。
漆黒の闇の中、佐々木部長の重厚な役員PCの電源を入れる。当然、強固なパスワードロックがかかっていた。だが、相手はアナログ世代の古狸だ。
俺はパグ特有の短足と極端に低い視線を活かし、デスクの下へ潜り込んだ。案の定、引き出しの裏側に『PASS:sasakikintarou1129(いい肉)』と書かれた間抜けな付箋がテープで貼られているのを発見した。
「……見つけたぞ、佐々木……」
震える爪先でキーボードを叩き、隠しフォルダをこじ開ける。画面には、複数の公営競技アカウントを経由した投票履歴と、海外ダミー会社への夜間一括送金予約データがズラリと並んでいた。
時刻は0時58分。俺は全データを手元のUSBメモリに複製し、送金処理キャンセルのエンターキーを叩き込んだ。その瞬間、極度の緊張で顔の深いシワから粘り気のある汗がぼとりと、佐々木のデスクマットの上に滴り落ちた。
廊下の奥から隊長の唸り声が響く。俺はUSBを握りしめ、資料棚の陰を縫って非常階段へ滑り降りた。
――深夜2時半、自宅のベランダ。
裏路地伝いにどうにか帰り着いた俺は、スマホの画面を見た。田中から『隊長を巻いて無事帰宅ッス!』という威勢のいいLIMEが入っているのを確認し、深く安堵の息を吐く。
俺は愛用のブライヤー製パイプを取り出した。数少ない大人の趣味――先月の呉出張の折、港町の老舗煙草店で買い付けたパウチ葉『スイートダブリン』を丁寧に詰める。
ライターの火を近づけ、ゆっくりと煙を吸い込む。
会長が咽せ返ったような太い葉巻は、気道の狭い短頭種には猛毒だ。だが、このパイプ煙草は煙を肺に入れない「口腔喫煙」が基本。これならむせることなく、アイリッシュウィスキーと柑橘類の芳醇な香りだけを舌の上でころがすことができる。
冷たい潮風に混じる紫煙の甘い香りが、極度の緊張で張り詰めていた神経を静かに解きほぐしていく。
「……隠せば隠すほど、後から支払うツケは大きくなるんだよ、佐々木部長」
昼間の頼りないマスコットのような顔は、そこにはない。俺は持ち帰ったデータを手に、一枚の黄色い付箋へ『明朝9時15分、会長室』とだけ書き込んだ。
翌朝――。
何食わぬ顔で出社してきた経理部長・佐々木は、自席のPCを立ち上げた瞬間、その場に石のように固まった。
画面には「送金キャンセル」の無情なエラーログ。さらに、デスクの裏から剥がされ、キーボードの横に堂々と貼られたパスワードのメモと、『明朝9時15分、会長室』と書かれた黄色い付箋。
そして何より、彼が鼻をひくつかせた瞬間、デスクマットに残された一滴の汗のシミから立ち昇る『スイートダブリン』の極上のウィスキー香――営業2課にパグは俺一人しかいない。それは、昨日まで自分が「無能なパグ」と見下していた俺のシワの奥底に染み付いていた、特有の香煙の匂いと完全に一致していた。
滝のような冷や汗を流し、激しい恐怖で全身を震わせる佐々木の背中を、俺は遠くのデスクから愛功たっぷりのマスコット顔で見つめていた。
(……佐々木部長。言い訳の準備は、できているか?)




