第39話:黄昏の散歩と、空からの不幸
第39話:黄昏の散歩と、空からの不幸
(投稿日2026年8月18日)
8月18日、火曜日。夏休み12日目。
昼間は冷房の効いた部屋で読書とDVD消化に費やし、危険な熱波が引き、陽が傾きかけた夕方過ぎ。俺はふらりと散歩に出かけることにした。
8月半ばの夕方の空気は、どこか切なく、そして心地いい。
昼間のギラつく太陽が沈み、茜色に染まる港町・呉の街並みを眺めながら歩く。瀬戸内海から吹く少し湿った夕風が、首の深いシワと火照った肌を優しく撫でていく。
「……ふぅ。やっぱり、夕方の散歩はなんかいいな……」
過酷な出社も、社内政治の火消しも忘れ、静かな黄昏時の情緒に浸っていた、その時だった。
ボトッ、ベチャッ!
「……フゴッ!?」
頭頂部に、不快極まりない生温かい感触と、ずっしりとした重みが落とされた。
上空を見上げると、海風に乗って旋回する一羽の巨大なトンビが、ふてぶてしく鳴きながら飛び去っていくのが見えた。
嫌な予感とともにポケットからスマホを取り出し、インカメラ(自撮りモード)を起動して頭の上を映し出す。
画面の中には、俺の短い被毛の上に、港町のトンビが見事に投下した白と緑の『特大のフン』が、べっとりとへばりついていた。
「最悪だ……!!」
情緒もへったくそも完全に吹っ飛んだ。
おでこの深いシワの奥へと生温かい液体が垂れ落ちてくる前に、俺は家に向かって走り出した。とはいえ、内臓脂肪レベルEの短足パグに「猛ダッシュ」など不可能だ。
本人は全力疾走のつもりでも、傍から見ればお尻をプリプリと振る無様な競歩でしかない。夕暮れの歩道を、短頭種の狭い気道を「ヒュー! ヒュー!」と限界まで荒く鳴らしながら、窒息寸前で爆走(競歩)する姿は、実に惨めなものだったろう。
這々の体で玄関の鍵を開けるやいなや、靴を脱ぎ散らかして風呂場へ直行。
服を脱ぎ捨て、シャワーの温水を頭から叩きつける。
低刺激の獣人用シャンプーを丸い肉球でたっぷり泡立て、頭の被毛からおでこのシワの隅々まで、入り込んだ汚れを何度も何度も念入りに洗い流した。
「……はぁぁ……酷い目に遭った……」
風呂から上がり、バスタオルで顔のシワの奥までしっかりと水分を拭き取る。
そして洗面所の鏡の前で、ベビー用綿棒を不器用に両手で挟み込み、黒川会長直伝の抗真菌クリームをシワの奥深くにチマチマと塗り込んだ。これを怠れば、フンの雑菌と水分でマラセチア菌が再び大爆発してしまうからだ。
シワのケアを終え、冷蔵庫で冷やしておいた特注のデカフェ烏龍茶を一口飲み干すと、薬品の冷涼感とともに、ようやく体中の脱力感と安堵が戻ってきた。
最高の黄昏時からの、空からの理不尽な不意打ち。
まさに踏んだり蹴ったりの最悪な散歩だった。
けれど、頭もシワもピカピカに洗い上がり、薬の匂いを漂わせる自分の姿を鏡で見つめ、俺の股の間に挟まった短い巻き尾は、苦笑いとともに静かに揺れていた。




