第36話:8月15日の歴史と、真夏のフルコース
第36話:8月15日の歴史と、真夏のフルコース
(投稿日2026年8月15日)
8月15日、土曜日。終戦記念日。
朝のテレビをつけると、どのチャンネルもあの戦争の特別番組ばかりだった。
世間一般には今日が『終戦の日』とされているが、正確に言えば今日はポツダム宣言受諾が国民に放映された日であり、正式な降伏文書調印は9月2日に東京湾上の米戦艦ミズーリ甲板で行われた。終戦を知らぬまま南太平洋の島々で戦い続けた兵士たちの無念に思いを馳せながら、俺は冷たい特注デカフェ茶を静かに飲み干した。
……歴史の感慨に浸るのもそこそこに、俺には今日、人生最大級の密命があった。
警察官・なつみさんとの「初デート」である。
隣人の田中を起こさぬよう、早朝の廊下を足音を殺して抜け出した。あいつに見つかれば「山田さん、休日の朝からその格好はどこへ行かれるのですか?」と無表情で追及されるのは目に見えている。幸い、鉢合わせずにマンションを脱出できた。
待ち合わせ場所には、約束の5分前になつみさんが現れた。
涼しげな夏物のワンピース姿。私服の彼女は、職場の凛々しい警察官の鎧を脱ぎ捨て、どこまでも眩しかった。
「山田さん、お待たせしました!」
「いや、俺も今着いたところだ。……なつみさん、一つ聞いてもいいか。なぜ俺のようなおじさんをデートに誘ってくれたんだ?」
俺がずっと抱いていた疑問を口にすると、彼女は恥ずかしそうに目元を和ませた。
「……山田さんといると、すごく心が安らいで安心できるんです。警察という気の休まらない職場の私にとって、それが一番大切なんです」
その言葉だけで、朝からの緊張が一気に吹き飛んだ。
午前中は呉の『大和ミュージアム』をはじめとした、冷房の完璧に効いた屋内施設を巡った。
猛暑の中、短頭種である俺が熱中症で死なないよう、彼女が意図的に組んでくれたルートだ。巨大な10分の1戦艦大和の展示物の前で目を輝かせる彼女の横顔を、俺は隣で静かに見守った。
そして日が沈み、危険な熱波が引いた夕暮れ時。二人はナイター営業の『遊園地』にある大観覧車のゴンドラの中へ。
茜色に染まる呉の街並みを背景に、二人きりの密室。いくら日が落ちたとはいえ、緊張と熱気で俺のパグ顔は赤く熟し、思わず「フゴッ」と息を詰まらせると、なつみさんはクスクスと可愛らしく笑った。
「ふふ、山田さんって本当にかわいいですね」
夜は、お互いに大好物の『焼肉屋』へ。
「山田さん、タマネギ不使用の特製醤油タレ、頼んでおきましたよ。お肉も、急性膵炎にならないように脂を徹底的に落とした特上の赤身ロースです」
と微笑む彼女の完璧な気遣いに、俺の本能は歓喜で打ち震えた。さらに彼女は「山田さんの歯だと噛み切るのが大変ですから」と、分厚い赤身肉をキッチンバサミで食べやすいサイコロ状に切り分けてくれる。
俺は完全に、この優秀な警察官の掌の上で心地よく転がされていた。
安全で美味しい赤身肉を堪能し、二人の会話は深夜近くまで弾んだ。
夜22時。彼女を駅の改札まで送り届け、解散となった。
「山田さん、今日は本当に楽しかったです。……また、誘ってもいいですか?」
「……ああ。いつでも大歓迎だ」
夜風の吹く帰り道。
熱中症も膵炎も回避した無事な身体と、満たされたお腹。
そして、胸の奥に残る温かい温もり。
36歳独身パグの夏の夜。
俺の股の間に挟まった短い巻き尾は、夜空の月を見上げながら、今日一番の幸せな振れ幅で揺れていた。




