第34話:敵地スタジアムと、ハマッ子の意地
第34話:敵地スタジアムと、ハマッ子の意地
(投稿日2026年8月10日)
8月10日、月曜日。夏休み4日目。
先日の緊急出勤の事務処理と書類確認のため、俺は夕方から小一時間ほど会社へ顔を出していた。
用件を済ませ、誰もいないフロアを後にしてエントランスへ向かうと、受付の影からあのドーベルマン警備隊長がヌッと巨体を現した。
「……山田」
相変わらずの鋭すぎる眼光と、殺し屋のような面構え。
だが、あれは骨格ゆえの誤解であり、本人は精一杯の笑顔を作っているつもりなのだ。隊長は大きな前足で、懐から紙チケットを差し出してきた。
「……今夜、家族とマツダスタジアムへナイター観戦に行くのだが、親戚が急用で1枚余ってしまった。……どうだ? 来るか」
プロ野球観戦。
だが、手渡されたチケットの座席位置を見た瞬間、俺は思わずパグ顔をひきつらせた。
「あの……隊長。俺、昔横浜の拠点で働いていた頃からの生粋の『横浜DeNAベイスターズ』ファンだってご存じないんですか? これ、相手チームの『真っ赤』な一塁側・カープ応援指定席じゃないですか……」
アウェイどころか、熱狂的な敵地のど真ん中である。
するとドーベルマン隊長は、耳をピクピクと立たせ、喉の奥から「グルゥッ……!」と低く地鳴りのような唸り声を漏らした。本人は「遠慮するな」と言いたいだけなのだろうが、周囲には完全な脅迫に聞こえる。
「……フゴッ! い、行きます! 喜んでご一緒させていただきます!」
威圧感に気圧された俺は、ペラペラの紙チケットを両手の太い肉球で不格好に挟み込み、受け取るしかなかった。
呉線に乗って広島駅へ向かい、真っ赤なユニフォームの波が押し寄せる『カープロード』を隊長一家と練り歩く。数時間後、俺は熱気あふれるマツダスタジアムのスタンドにいた。
周囲は見渡す限りの真っ赤なファンと、ドーベルマン隊長の凛々しい奥さん、そして少しシャイな子供たち。
猛暑の屋外スタジアムに渦巻く熱気の中で、体温調節ができない短頭種の俺は、首の深いシワに特大の保冷剤入りタオルを巻き、顔にハンディ扇風機を当てながら気道のヒューヒュー鳴りに耐えていた。
「山田君、打線が繋がらんな」
「そ、そうですね……(※心の中では横浜の先発ピッチャーの素晴らしいキレを大絶賛)」
真っ赤な敵陣のど真ん中で身を縮こまらせ、横浜の好プレーに思わずガッツポーズが出そうになるのを死ぬ気でポーカーフェイスを決め込んで押し殺す、地獄のような緊迫感。おまけに、周囲のファンに合わせて名物の『スクワット応援』を強要され、俺の絶望的な短足と内臓脂肪レベルEの樽腹は悲鳴を上げていた。
だが、過呼吸で倒れそうになった俺に、隊長の奥さんが「山田さん、無理しないで。はい、これどうぞ」とタッパーを差し出してくれた。
「脂っこい球場グルメは膵炎に悪かったですよね。これ、塩を軽く振った冷やしきゅうりと、茹でササミです」
俺の致死的な病歴(生態的弱点)を考慮してくれた、手作りの脂質ゼロメニュー。
持参した冷たいデカフェ茶とともに、シャキシャキとしたきゅうりを噛み締める。不器用な横顔で豪快にビールを飲んでいる隊長と、奥さんの温かい気遣いに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
試合は接戦の末、カープの勝利で終わった。
ハマッ子としての悔しさを噛み殺しつつも、真っ赤な風船を飛ばして万歳三唱する隊長一家とともに球場を後にする。
帰り際、隊長が俺の肩を大きな前足でぽんと叩いた。
「……無理に付き合わせてすまなかったな、山田。良い息抜きになった」
「……いえ。楽しかったです、隊長」
敵地の真っ赤な海での息詰まる観戦と、ハマッ子としての密かなプライド。
そして、不器用な警備隊長一家との、奇妙で温かい夏の夜。
混雑する駅へ向かう人波の中で、俺の股の間に挟まった短い巻き尾は、汗ばんだスラックスの裏で静かに揺れていた。




