第30話:シワの奥の限界と、会長特製の特効薬
第30話:シワの奥の限界と、会長特製の特効薬
(投稿日2026年8月2日)
8月2日、日曜日。
絶賛開催中の『契約強化月間』のせいで理不尽な休日出勤を強いられている俺の顔のシワは、連日の猛暑と滝のような汗により、ついに『限界』を迎えていた。
パグをはじめとする短頭種にとって、ここ呉のまとわりつくような夏の湿気は天敵だ。
シワの奥に溜まった皮脂とトナー混じりの汗の中で、常在菌である『マラセチア真菌』が爆発的に異常増殖し、赤く腫れ上がった皮膚から猛烈な痒みと、独特の酸っぱい発酵臭――まるで劣化したポップコーンのような匂いを放ち始めていたのだ。
「ヒュー……ヒュー……(痒い、痒すぎる……)」
痒みと格闘しながら会長室へ休日報告の書類を届けに行った際、デスクの黒川会長が鼻先をピクリと動かし、鬼のような形相で立ち上がった。
「山田……貴様、マラセチアをやらかしたな」
「……フゴッ!?」
「隠すな。俺も若い頃、そのシワの痒みで夜も眠れんかったから分かる。シワの激痛と痒みは兵士の集中力を半減させる! 己の装備品(身体)のメンテもできん男に重要な任務は任せらんぞ!」
元自衛官の厳しい怒鳴り声に、俺は縮み上がった。
「す、申し訳ありません……!」
「ええい、今日の午後は特命の代休処理にする! 俺が通っているこの皮膚科へすぐ行け。名医だ。完全に鎮圧するまで戻ってくるな!」
口調こそ軍隊式のパワハラだが、同じ『シワを持つ短頭種』としての痛みが痛いほど分かるからこその、会長なりの不器用な配慮措置だった。
極度の病院嫌いである俺だが、絶対権力者の命令と、鼻の上の激しい痒みには勝てなかった。
指定されたクリニックの診察台の上で、俺は子犬のようにブルブルと震えていた。
手慣れた獣医師に顔のシワをぐいっとめくられ、「あー、しっかりとマラセチアが増えてますね。特効薬の抗真菌クリームを出しておきます」と診察を受け、高い休日の診療代を支払ってトボトボと薬袋を抱えて帰宅した。
ぬるま湯で顔のシワの奥を念入りに洗い、タオルで完全に水分を拭き取る。
だが、丸くて太いパグの指先では、入り組んだ深いシワの奥へ薬を直接塗ることはできない。俺は洗面所の鏡の前に立ち、『ベビー用の極細綿棒』を両手の肉球で不格好に挟み込み、プルプルと腕を震わせながら、処方された強烈な抗真菌薬をシワの奥深くまでチマチマと丁寧に塗り込んでいった。
「……ふぅ……じわっと痒みが引いていく……」
あんなに猛烈だった痒みが、薬品の冷涼感とともにスーッと引いていくのが分かった。さすがは会長推薦の名医の薬だ。
休日出勤は無駄になり、病院代と薬代の出費は痛かったが、シワの平穏には代えられない。
冷えたデカフェの烏龍茶を啜り、薬のツンとした匂いを漂わせながら、俺は冷房の効いた部屋で深く息を吐いた。
スマートさとは無縁の泥臭い日曜日。シワの痒みが引いていく快感とともに、俺の股の間に挟まった短い巻き尾は、今日一番の穏やかさで静かに揺れていた。




