第29話:猛暑のインセンティブ戦線と、黄色い猛虎
第29話:猛暑のインセンティブ戦線と、黄色い猛虎
(投稿日2026年8月1日)
8月1日。暦が真夏へ突入すると同時に、社内に異様な緊張感が走り出した。
今月は我が社の『複合機契約強化月間』。
期間中の成約インセンティブが通常の2倍になるという、営業マンにとってのボーナスステージだ。
対象となるのは、狂犬チワワ率いる営業1課、俺たち泥臭い2課、そして最近新設されたばかりの営業3課の三つ巴である。
フロアは朝から狂気に包まれていた。
1課のチワワどもは、ダイヤルを回す時間を惜しんでインカムを小さな頭にガムテープでぐるぐる巻きに固定し、血走った目で鬼のようにテレアポ電話をかけまくっている。甲高いキャンキャンという威嚇声がフロア中に響き渡り、まるで戦場のようだ。
そして、今年新設された営業3課のデスクには、さらに凄まじい光景が広がっていた。
「よっしゃあ! 今月は3課がぶっちぎりで1位獲ったるでぇ!!」
課長席で咆哮を上げているのは、黄色と黒の『タイガースハッピ』を羽織ったトラ型獣人の3課長だ。
彼は大阪支店から鳴り物入りで異動してきた猛獣なのだが……致命的な欠陥があった。ここ広島県・呉市の企業風土とカープ愛を全く理解していないのだ。
前日にカープが甲子園で惜敗したばかりの翌朝、黄色と黒のハッピを着たトラが「まいど! 商談でおます!」と威圧的に飛び込んでいく。結果、地元の熱狂的カープファンの社長たちから塩を撒かれる勢いでお払い箱にされ、3課の成績は現在ダントツの最下位に沈んでいた。
そんな猛獣たちの的外れな狂乱を横目に、俺は冷たい特注のデカフェ烏龍茶を啜りながら、静かに既存顧客のリストをめくっていた。
8月の猛暑の中、新規開拓で飛び込み営業をするなど、短足・短頭種の俺にとっては自殺行為だ。アスファルトの照り返しで熱中症になり、シワが焼ける前に、俺は俺のやり方でインセンティブを狙う。
狙い目は、過去にコピー機を導入してくれた既存の取引先だ。
日傘をさし、電動アシスト自転車のペダルをゆっくり回して「猛暑のお見舞い」と称して冷たいお茶を手に訪問。トナーの目詰まりや用紙補給を無料で手伝う。
クーラーの効いたオフィスでも、作業をすればパグの短い気道はヒューヒューと鳴る。舞い散る黒トナーの粉塵と汗が深いシワの奥に入り込み、慢性的なマラセチア菌(皮膚炎)が狂いそうなほどの痒みを主張するが、俺は痛みに耐えながらタオルで丁寧に顔を拭い、社長の阪神批判とカープ愛の熱弁に「ええ、本当におっしゃる通りです」とポーカーフェイスで頷き続けるのだ。
「いやぁ、山田君。助かるよ。それにしても君のところの新しいトラの課長、カープが負けた翌日にあのド派手なハッピで来られてもねぇ……」
「お察しします。……あの、よろしければ別拠点の2台目、うちで保守ごと引き取らせていただけませんか?」
「うん、山田君のところなら安心だ。頼むよ」
地元社長の愚痴の受け皿となり、シワの痒みに耐えながら泥臭く頭を下げる。これで向こうから契約を差し出してくれるのだ。
「……よし、今月も着実に2台分のインセンティブ確定だ」
頭にテープを巻いて絶叫するチワワどもと、タイガースハッピを踊らせて空回りするトラ課長。
狂乱のオフィスで、俺は首のシワに保冷剤を忍ばせ、静かに革鞄を握り直した。
スマートでも、猛烈でもない。
けれど、ご当地の空気を読み、泥臭く稼ぐ俺の股の間に挟まった短い巻き尾は、今月も静かに、燃えるように揺れていた。




