第28話:絶望のプレゼンと、マルチーズ社長の極秘夕食
第28話:絶望のプレゼンと、マルチーズ社長の極秘夕食
(投稿日2026年7月27日)
7月27日、月曜日。社運を賭けた月例役員会議の当日。
俺は朝から、人生最大級のパニックの渦中にいた。
昨晩徹夜で仕上げたプレゼン資料をデスクで最終チェックしていたその時、肘が滑ってカップが傾いたのだ。
注がれていた甘い花香が漂う『特注デカフェ・凍頂烏龍茶』が、キーボードと印刷したての資料へドバッと惨劇を描く。
「……ッ!? あ、あーっ!?」
急いで布巾で拭き取ったものの、PCは香ばしいお茶の匂いとともに煙を吹いて完全に沈黙。服はベチョベチョ。
焦り狂った俺は、共有のサブPCからクラウドへアクセスし、自動バックアップされていたデータを共有プリンターからパニック状態で吐き出させた。
だが、慌ててトレイから引っ張り出した紙束を見て、俺は血の気が引いた。
極度の焦りから、仕事のフォルダではなく、匿名でやっている『裏料理ブログ』の画像同期フォルダを全選択して印刷してしまったのだ。紙束の中には、プレゼン資料に混ざって『トマトで作った無臭エビチリ』や『先日のレバ塩炒め』の高画質な料理写真が大量に紛れ込んでいた。
「おい山田、会議5分前だぞ。……なんだその服と写真は」
通りかかったブルドッグ部長に呆れ顔で吐き捨てられ、俺は絶望のまま会議室のドアを開けた。
会議は悲惨極まりなかった。
正当な数値データを口頭で必死に説明しながら、手元の資料をめくるたびに現れるプリプリのエビチリや香ばしいレバ炒めの大写し。黒川会長が眉をひそめる中、俺は冷や汗で顔のシワをボトボトに濡らしながら、なんとかプレゼンを終えた。
「完全に終わった……」
自分のデスクで魂が抜けたように落ち込んでいると、ブルドッグ部長が重い足取りでやってきた。
「おい、山田。社長がお呼びだ」
「……ついに来たか」
脳裏をよぎるのは左遷の二文字。支店のある宮崎か。……いや、どうせ飛ばされるなら、いっそ鹿児島の古い空き家でも買ってリノベして静かに暮らすか、などと、やけっぱちな現実逃避の妄想が駆け巡る。
震える足で社長室の扉を叩くと、そこにいたのは我が社の社長、マルチーズの阿部だった。
実権を握る黒川会長の影に隠れ、いつも会議では一言も発しない「お飾りトップ」の小柄な阿部社長は、フッと目元を和ませて言った。
「山田君。今日の会議で見せてくれたエビチリの写真……実に美味しそうだったね。実は僕、君の料理ブログの隠れファンなんだよ。……もしよかったら今夜、ご飯でもどうだい?」
「……え?」
想像の斜め上を行く展開に、パグ顔が硬直した。
夕方。俺は阿部社長の送迎車に同乗し、高級な中華レストランへと向かっていた。
緊張でカチコチになっている俺を見て、小柄な阿部社長が優しく微笑む。
「僕も、黒川会長の顔色を窺うばかりのお飾り社長業で、落ち込むことは多くてね。……そう小さくなっていないで、リラックスしてシートの背もたれに深く寄りかかるといい」
「は、はい……ッ!」
言われた通り背もたれに身体を預けたのだが――生まれつきの絶望的な短足ゆえに足がフロアに届かず、深すぎる高級レザーシートに沈み込んで首のシワが激しく圧迫された。
「……フゴォッ!? ヒュー……ッ」
惨めな過呼吸の鼻鳴りが車内に響き渡り、阿部社長は「ふふ、君は本当に魅力的だね」と楽しそうに目を細めた。
店に着くと、阿部社長の配慮により、タマネギや香辛料を完全に排除した『特製エビチリ(トマト風味)』と『ネギ抜きレバ炒め』がテーブルに並んだ。
気苦労の多いお飾り社長の愚痴を静かに聞き、安全で美味しい中華を共に味わう。食後、社長は「今日は楽しかったよ」と、帰りのタクシー代として一万円札を手に握らせてくれた。
夜風の中、タクシーのリアシートに揺られながら、俺は胸を撫で下ろした。
大失敗のプレゼンから一転、社長の隠れお気に入りへの昇格。
左遷の危機は去り、胃袋は美味い中華で満たされている。
人生、どこでどう転ぶか分からない。
タクシーのシートの上で、俺の短い巻き尾は、今日一番の安堵とともに静かに揺れていた。




