第3話:昼飯抜きと、会長からの極秘指令フゴ
第3話:昼飯抜きと、会長からの極秘指令
午前の外回り――という名の、営業1課のチワワどもが取引先で散らかした不始末の泥臭い回収作業がなんとか終わり、ようやく待ちに待った昼休みを迎えた。
空っぽの胃袋を満たそうと、すがるような思いで革鞄のファスナーを開けた俺は、その場で絶望に凍りついた。
「嘘だろ……弁当、忘れてきた……」
今朝の大寝坊のせいだ。昨晩、駅前のスーパーで半額シールをめぐり、主婦層のトイプードルたちとの熾烈な奪い合いの末に勝ち取った『大豆ミートの唐揚げ弁当』が、自宅のテーブルにぽつんと取り残されている光景が鮮明に脳裏に浮かぶ。
肩を落とす俺の鼻腔を、フロアのあちこちから漂う同僚たちの昼飯の匂いが容赦なく刺す。大豆由来のフェイク肉を焼いたタレの香りと、カップ麺の濃密なジャンク臭。猫型獣人のように「肉手当」が出ない俺たち一般犬型階層の飯は安っぽいが、空腹時のオフィスにおいては文字通りの拷問だった。
「山田係長、会長秘書から直接の社内便です」
メールボーイのペキニーズ・田中くんが、声を潜めて俺のデスクに一通の重々しい封筒を置いていった。表面には『親展』の赤スタンプ。周囲の目を盗んで開封すると、そこには簡潔に一言、「即刻、最上階へ来い」とだけ書かれていた。
嫌な汗が顔のシワの間に滲む。俺は情けなく鳴る腹を擦りながら、エレベーターで最上階の会長室を目指した。
重厚な一枚板の扉をノックし、入室を許される。
部屋の中に満ちていたのは、甘く重厚な葉巻の香りだった。革張りの巨大なソファにどっしりと腰掛け、高級シガー『モンテ・クリスト』を燻らせているのは、我が社の創業者であり会長の黒川――部長と同じ短頭種でありながら、引き締まった体躯を持つフレンチブルドッグだ。
それは、ジャパウ国の建国者である初代大統領フィデロ・J・カストロと全く同じスタイルだった。大型犬種が幅を利かせる財界において、彼があえて建国者と同じ葉巻を愛用しているのは、決して舐められないための強烈なブランディング(威嚇)なのだと社内では噂されている。
短頭種ゆえに気道が狭いリスクを熟知している黒川会長は、煙を肺まで落とさず、口内だけで芳醇な香りを転がす繊細なスロースモーキングの達人でもあった。立ち上る紫煙の向こうから、鋭い眼光が俺を射抜く。
「……山田。よく来たな」
「はい、会長」
「単刀直入に言う。経理部長の佐々木に、裏金作りの疑惑がある。特権階級である大型の猫型獣人のダミー会社と結託し、架空のコンサル料を流しているようだ」
会長は葉巻をゆっくりと灰皿の縁に置き、低いダミ声で切り出した。
「は……経理部長が、ですか?」
「そうだ。だが、下手に内部監査を入れれば奴らは警戒して証拠を隠滅する。そこでだ……お前が必要なんだよ、山田」
会長は深く太いシワの寄った顔に、意味深な笑みを浮かべた。
「お前は営業1課のチワワどもが散らかした使途不明の伝票処理で、日常的に経理部に顔を出している。そして何より……エリート意識の塊である大型犬の佐々木にとって、底辺を這いずり回るパグのお前は『風景』と同じだ。どれだけ足元をうろついても、奴らはお前を一切警戒しない」
「……!」
「お前のその、感情を消し去る『天性の謝罪顔』も好都合だ。1課の不始末の清算を口実に、明日から経理部に日参しろ。佐々木のデスク周辺の不自然な資金の動きを探るんだ。お前のような『目立たず、害がなさそうに見える男』にしかできない潜入任務だ」
要するに、またしても厄介で危険な捨て駒に指名されたわけだ。失敗すれば間違いなく経理部に握り潰され、会社を追われる。
だが、今回の会長の言葉には単なる嫌がらせではない、冷徹なプロとしての評価が混ざっていた。断る権限など俺にはない。苦渋の決断で低く頷いた、その直後だった。
――ぐるるるるるっ。
重厚な会長室の静寂を切り裂いて、俺の限界を迎えた空腹の腹の虫が、盛大かつ情けない音を響かせた。
黒川会長は片眉を跳ね上げ、くすぶる葉巻の煙の向こうから冷ややかな視線を送ってくる。
「……山田。任務の前に、まずはその情けない腹の虫を黙らせてこい。地下食堂の特製・厚切り大豆カツ丼の券をくれてやる」
「あ、ありがとうございます……!」
俺の巻き尾は、今日初めて少しだけ上を向いた。




