第17話:隣のペキニーズと、鼻先の盲点
第17話:隣のペキニーズと、鼻先の盲点
(投稿日2026年7月8日)
驚くべき事実が発覚した。
メールボーイであり、社内調査の相棒でもある田中が、実は俺の住むマンションの「真隣の部屋」に住んでいたのだ。
発覚したのは今朝、いつものように7時40分に跳ね起き、半開きの鞄を抱えて半狂乱でドアを開けた瞬間だった。
隣の302号室から、完璧に手入れされたスーツ姿の田中が静かに出てきたのだ。
「……おはようございます、山田さん」
「……た、田中……!? なぜお前が隣の部屋から……!?」
「なぜも何も、僕はこの部屋に2年前から住んでいますよ」
田中は顔色一つ変えずに答えた。
俺たちのマンションは、聴覚の鋭い獣人向けに設計された最新の防音・防臭構造が施されている。分厚いコンクリート壁は隣の生活音や足音など一切通さない。
加えて、行動時間の決定的なズレだ。
毎朝5時に起きて豊かな被毛を念入りにブラッシングし、8時前には出社している早起きの田中。
対する俺は、目覚ましを叩き潰して7時半過ぎにドタバタと部屋を飛び出す大寝坊の常習犯。
生活ラインが一切重ならないのだから、これまで鉢合わせなかったのも当然だった。
「……言われてみれば」
俺はシワの寄った鼻をひくつかせた。
この階の廊下を通るたび、時折ふっと漂っていた上品な香気。
繊細に淹れられたデカフェ茶葉の香りと、ペキニーズ特有の長毛を整える無香料の上質シャンプーの匂い。
分厚い壁は音を完全に遮断していたが、俺のシワの奥の鼻は、隣人が放つ「相棒の匂い」を、ただの建物の芳香剤か何かだと勘違いしてスルーし続けていたのだ。
「奇遇だな。……会社以外でもよろしく、隣人さん」
「ええ。ですが山田さん、立ち話をしている暇はありませんよ。あと2分で駅へのダッシュを始めないと、今日のドーベルマン隊長の検問に引っかかります」
「……っ!? やべえ!!」
田中は優雅な足取りでエレベーターのボタンを押し、俺は短足を必死に動かして階段を駆け下りた。
会社でも、自宅でも、すぐ隣に頼れる相棒がいる。
相変わらず朝は地獄で、尻尾は重く垂れ下がったままだが――
この気詰まりなマンションの廊下が、ほんの少しだけ心地よい場所に思えた。




