第13話:死を呼ぶタマネギと、奇跡のノーストップ出社
第13話:死を呼ぶタマネギと、奇跡のノーストップ出社
(投稿日2026年7月6日)
5時起きのはずが、目が開いた時には7時40分だった。
今日も今日とて、俺の朝は完璧な失敗から始まる。
洗面所で顔を水で洗い、タオルで顔面を乱暴に擦る。本来なら、パグ特有の深い顔のシワの奥まで水滴を念入りに拭き取り、薬用クリームを塗り込むのに2時間は必要なのだ。それをたった3分の突貫工事で済ませた代償として、すでにシワの奥で猛烈なマラセチア菌の痒みが蠢き始めている。短頭種サラリーマンの朝は、見た目以上に皮膚との過酷な戦いである。
朝飯をゆっくり食べる時間など当然ない。
テーブルの上の四万十バナナの皮を乱暴に剥き、一口大に千切った実を喉の奥へ強引に放り込む。平らな臼歯で十分に噛み砕く暇もなく、パグ特有の長すぎる軟口蓋にねっとりとした果肉がへばりつき、窒息しかけてカハッと惨めな咳が出た。命懸けのファストフードだ。
つけっぱなしのテレビでは、猿型や豚型獣人向けの健康チャンネルのアナウンサーが爽やかな笑顔で叫んでいる。
『血液サラサラにはタマネギサラダ! ※犬・猫型獣人の皆様は絶対に真似しないでください』
「……猿型どもは気楽でいいよな」
俺たち犬型獣人にとって、ネギやタマネギに含まれるアリルプロピルジスルフィドなどの有機硫黄化合物は、赤血球を内部から破壊して猛烈な溶血性貧血を引き起こす致死性の毒物だ。社内食堂でも厳重に禁じられているその球根類を、他種族の奴らは「健康にいい」と持て囃す。どれだけ健康診断の数値がボロボロだろうと、あの毒物だけは絶対に口にできない。代わりに、俺は犬用の中性脂肪対策サプリを給湯室の水で強引に流し込んだ。
時計の針は8時05分。
「やべえ……!」
半開きの革鞄を抱え、家を飛び出す。
だが、今日の通勤電車は奇跡を起こした。
『獣身事故』による遅延はなく、首都の港からの湿った風が吹き抜ける駅のホームへ滑り込んだ電車はスムーズにドアを開けた。
すし詰め状態の車内で、大型犬種たちのむせ返るような獣毛の臭いに耐え忍びながら揺られること40分。
8時50分、俺は本社の改札ゲートへ滑り込んだ。
受付の脇では、あのドーベルマン隊長が太い腕を組み、鋭い眼光でこちらを睨みつけている。
俺は荒いパンティングで口の端から飛び散る涎をスーツの袖で乱暴に拭い、ポケットから正真正銘の『社員証』を取り出した。
――ピッ♪ 『認証されました』
無事に開くゲート。
すれ違いざま、ドーベルマン隊長が微かに片眉を上げ、鼻腔からフンと息を漏らしたのが見えた。「今日は遅刻じゃないな、山田」とでも言いたげな無言の圧。
「……よし」
自分のデスクに荷物を降ろし、俺はヒューと小さく息を吐いた。
遅刻なし。警備員からの取り調べもなし。致死性の毒物も食っていない。
それだけで、今日の俺の朝は「大勝利」と言ってよかった。
まあ、9時になればまた、営業1課の狂犬チワワどもが散らかした火の粉を被る地獄が始まるわけだが。
顔面のシワの奥で広がる猛烈な痒みに耐えながら椅子に座る。長年の社畜生活ですっかりクセがついてしまった俺の短い巻き尾は、平和な朝を迎えても決して上を向くことはなく、股の間にダラリと垂れ下がったままだった。




