第12話:激マズプロテインは裏切らない(?)
第12話:激マズプロテインは裏切らない(?)
(投稿日2026年7月5日)
「フゴッ……ヒュー……ヒュー……ッ!」
ガンガンに冷房の効いた社内の階段。たった1階から2階へ上ってきただけで激しいパンティングを起こして極度の酸欠に陥り、顔の深いシワの奥に大量の涎を溜め込みながら、俺は手すりにしがみついて必死に呼吸を整えていた。
手に握りしめているのは、あの泥水のような味がする特製プロテインのシェーカーだ。長すぎる軟口蓋に絡みついて窒息しないよう、多めの水でシャバシャバに薄めたそれを、俺は毎日喉の奥へ流し込み続けていた。
健康診断の再検査を言い渡されてから数週間。
深海魚の魚粉とミドリムシを練り混ぜたような獣医専用の激マズプロテインを飲み続け、業務の合間に「エレベーターを使わずに階段を上る」という、パグにとっては命がけの有酸素運動を繰り返していた。
「山田さん。フォームが崩れてます。短頭種にとってそれは膝関節と心肺に危険です」
階段の上の踊り場から、メールボーイのペキニーズ・田中が無表情のままスポーツタオルとBCAAドリンクを差し出してきた。同じつ潰れ顔の短頭種である彼だからこそ、その指摘には冷酷なまでの説得力がある。
「プロテインを飲んだからといって、短頭種特有の極端な気道狭窄や短足の骨格が劇的改善するわけではありません。たった1階分の階段でそこまで心拍数を上げるのは、有酸素運動を超えて心肺停止のリスクになりますよ」
「わかって、いる……! だがな、田中……」
俺は涎を拭い、荒い息を吐き出しながら己の腹に目をやった。
相変わらず、スラックスの上からは樽のようなお腹がぽっこりと突き出ている。劇的なダイエットの成功も、田中のようなバキバキのシックスパックもそこにはない。36歳の中年パグの身体は、そう簡単に奇跡など起こしてくれないのだ。
だが――俺はジャージのベルトのバックルを太い指で確かめた。
「……穴が、一つだけ縮んだ」
「……ほう」
毎日、あのドブのようなプロテインを喉に詰まらせかけながら飲み続けた成果。
スパイ映画のヒーローのような変身などできない。劇的な痩身もない。
だが、ほんの数ミリ、ほんの僅かだけ、俺の身体は過酷な残業と加齢の波に抗っていた。
「プロテインは……裏切らない。……味はドブの底みたいに最悪だがな」
俺が惨めなドヤ顔で呟くと、田中はフッと小さく鼻で笑い、抱えていた社内便の書類を挟み直した。
「そうですね。では、そのささやかな成果を試す時間です。1課の狂犬チワワどもがまた他社の大型犬の懐に無遠慮に噛み付いて、特大のクレームを起こしました。2課の代表として、今すぐ先方のオフィスへ向かってください」
「……ブフォッ!?」
休む間もなく叩きつけられる、いつもの泥臭い火消し業務。
「……ふっ、任せろ。少し軽くなったこの身体なら、駅までダッシュしてやる……!」
俺は一つ縮んだベルトを誇らしげに叩き、数ミリだけ引き締まった(気のせいかもしれない)足取りで、1階のエントランスへ向かって駆け出した。
ウィーン、と自動ドアが開く。
――モワァッ。
その瞬間、7月の呉の港から吹き込む、塩分と湿度を含んだ暴力的な熱風が俺の全身を殴りつけた。
「……ッ!?」
18度に冷やされたオフィスから一転、サウナのような重い湿熱がパグの狭い気道へダイレクトに飛び込み、肺が焼けるように痛む。
わずか一歩。自動ドアをくぐっただけで、俺の膝は完全に笑い、ぜぇぜぇと惨めな音が鳴った。無理だ。こんな炎天下をダッシュなどしたら、先方に着く前に俺が肉塊になってしまう。
「……た、田中ァ……」
「はい。なんでしょうか山田さん」
「……経費で、タクシーを呼んでくれ……」
「了解ッス」
劇的な勝利も、美人の賞賛もない。
あるのはただ、激マズプロテインの後味と、終わらない平謝りの日常だけだ。
熱風の中、俺の股の間に挟まった短い巻き尾は、今日も決して上を向くことはなかった。




