第10話:泥酔社長の威嚇と、相棒の奇策
第10話:泥酔社長の威嚇と、相棒の奇策
(投稿日2026年7月3日)
会長からの理不尽な電話を切った後、俺は雨の降る呉の街へ飛び出し、指定された高級料亭『黒豚亭』へと走った。
人目につかない奥の離れ。雨で濡れた耳から落ちないよう抑えながらワイヤレスイヤホンを握り締め、座敷の襖を開けた瞬間――猛烈なアルコールの異臭と、大型肉食獣が放つ攻撃的なストレスフェロモンが室内に充満していた。息を吸うだけで気道がシビれるほどの特大の地獄だ。
畳の上でドカりと胡坐をかき、白目を血走らせて荒いパンティングを繰り返しているのは、我が社の大口取引先である大型警備会社のトップ――ドーベルマンの豪徳寺社長だ。口の端からは怒りとアルコールで泡立った涎が飛んでいる。
傍らでは、接待を担当していた営業1課のチワワどもが、社長の圧倒的な威圧感に完全に呑まれ、尻尾を股の間に巻き込んでガタガタと震えていた。
「使えん! 営業1課の若造どもは、人の懐に無遠慮に潜り込んで強引に契約印を迫るだけで、心のこもった接待一つできんのか! 今日の商談は白紙だ!」
「ひ、ひえっ……!」
豪徳寺社長のダミ声が座敷を揺らす。俺は即座に愛想笑いを消し、深いシワの寄った顔をさらに低く下げて室内へ滑り込んだ。
「豪徳寺社長、弊社の不手際で大変なお見苦しさをお見せし、誠に申し訳ございません。営業2課の山田でございます」
俺が深々と頭を下げると、豪徳寺社長の鋭い眼光がこちらを射抜いた。
「なんだお前は! 冴えないパグが出てきおって……俺の機嫌が直るとでも思っているのか!」
「いえ、決して……」
どれだけ罵倒されても、パグ特有の骨格構造上、俺の顔は「この世の終わりほど深く反省している」ようにしか見えない。この悲しき解剖学的特徴が、怒り狂う大型犬の毒気を僅かに削いでいく。
その時、雨の中を走る道中から繋ぎっぱなしにしていたイヤホンから、相棒・田中の冷静な声が低く届いた。
『山田さん、そのまま時間を稼いでください。俺、さっき会長からの呼び出しを聞いた瞬間にピンときて、豪徳寺社長のお抱え運転手から社内便のついでに情報を聞き出しておきました。あの社長、豪快な酒豪に見えて実は極度の下戸ッス。今は無理に酒を呑まされて自暴自棄になっているだけです』
(なに……!? 下戸だと……?)
『はい。そして元々は熊本出身の甘党です。俺、駅ビルが閉まる直前に九州特産コーナーへ飛び込んで買ってきました。今、料亭の厨房に回って板長に土下座し、強力な蒸し器で蒸し直してもらってます。……熊本名物“いきなり団子”です。今すぐ出させます!』
メールボーイならではの圧倒的な足の速さと、強引すぎる神対応。
俺は即座に給仕に目配せして酒瓶を下げさせ、熱々の濃い煎茶と、蒸気立つ特製の和菓子をテーブルに並べさせた。
「豪徳寺社長。お酒の席で大変失礼とは存じますが……今夜は温かいお茶と、故郷の甘味で一息つかれてはいかがでしょうか」
ドーベルマン社長が目を見開いた。
小麦粉の生地で厚切りのサツマイモとホクホクの粒あんを包み込んだ“いきなり団子”。 蒸し立ての黄金色のサツマイモと小豆の素朴で芳醇な香りが広がった瞬間、彼のピンと立っていた耳がピクリと動いた。
恐る恐る伸ばした太い指先で一片をかじり、モチモチの生地とホクホクの甘みを噛み締めると同時に、彼の強烈な威圧感がふっと霧散していった。
「……お前、なぜ俺が酒に弱いことと、熊本出身だと知っている……」
「私自身も体内にアルコール分解酵素を持たない、筋金入りの下戸でございますので。酒の席の苦しみは、痛いほど理解しております」
沈黙ののち、豪徳寺社長は深く溜息をつき、熱いお茶を静かに飲み干した。
「……ふん。パグのくせに、気の利く奴だ。商談の件は保留にしてやる」
深夜1時。命からがら料亭を後にした俺は、雨上がりの冷たい港風の中で大きく息を吐き出した。
イヤホンの向こうで、田中が静かに告げる。
『お疲れ様でした、山田さん。見事な火消しです』
「ふぅ……助かったよ田中。お前の足と機転のおかげだ。……さて、明日の始業までに、この服に染み付いた酒の匂いを落とさなきゃな」
スパイ映画の主人公のように華麗な立ち回りはできなくても、泥臭い仕事で会社と仲間を守る。
街灯の下、俺の股の間に挟まった短い巻き尾は、やっぱり上がらないまま静かに揺れていた。




