1-7
血の匂いがこびりつく戦場で、朱と雫は浅い呼吸を繰り返しながら倒れていた。
死闘の果ての虚脱。その静寂を、硬い軍靴の音が踏みにじる。
朱の脇腹に、容赦のない衝撃が走った。
「いったッッ!」
痛みと驚きに飛び起きた朱の視界に、皓城雪が映る。
姫巫女の側近を務める肩書の多い彼女は、表情ひとつ変えずに朱を見下ろしていた。
「そう痛がるな、ゴミ。応急手当は既に済んでいる」
言われて見れば、全身の裂傷には手際よく処置が施されていた。傍らで眠る雫も同様だ。
「なんで私がこんな男の世話など……。おい、状況は理解できているか?」
混濁する意識の中で朱は記憶を辿る。大蛇との決戦、その最後には気を失っていたはずだ。
周囲を見渡せば、あの巨躯は霧散している。討伐は、成功したのだ。
「あなたがいるということは、姉さ……姫巫女様が、手を貸してくれたのか? いやでも、封印の間を離れられないはずじゃ……」
「事実を受け入れろ、小僧。五百年間続いた『封印の儀』をわざわざ取りやめ、お前たちを助けるためにあのお方が動いてくれたんだ。……各地が大混乱になる可能性があるが、あのお方はこれが最善だと判断された。既にあのお方は、封印の脆かった『西の虎の宮殿』へと急ぎ向かわれたわ」
皓城は淡々と、だが事態の深刻さを突きつけるように告げた。
「お前たちには『北の狐』に向かえとの命令だ。まあ狐は問題ないだろうが、早く行ってこい。……今回世話になったのだろう」
「わ、私も行く……!」
身を起こした雫が、決然とした声を上げた。
「そういえば今更だが……君のシールドは、やはり狐との契約で授かった力なんだな」
朱の問いに、雫はどこか心許ない様子で頷いた。
「……たぶん。他にも気になることがあって……」
契約には必ず代償が伴う。雫が何を差し出したのかは分からない。
あれほど強力な権能だ、恐ろしく高い代償である可能性もあったが、あの狐が必要以上に残酷な要求をするとは思えなかった。今は信じて任せるしかない。
そうして二人は再び、狐のお社へと足を踏み入れた。
「無事に蛇を討伐できたようじゃな。あの狡猾な蛇を倒す策が功を奏したようでなにより。……しかしまあ、こちらも大きな代償を払わされたか。まさか封印解除後、即座に『アポカリプス』を起動できるとは童も想定外じゃった……」
お社の奥から、狐の声がそう響いた。
五大魔神・狐。しかし彼女は他の魔神と異なり、人間に対し友好的であった。
元々初代姫巫女と協力し他の魔神の封印を手伝い、自らもその大きすぎる力を危惧し眠りについたといわれている。
魔物となった雫の弟・蒼海吹が情報収集して得た情報だった。
「こちらの要求に対し、確かにあんたは答えてくれた。作戦は見事だった。不足があるとすれば、僕の未熟さだ。……もっと考えて行動できていれば……」
朱の自責に、狐は静かに首を振る。
「ひとまず、お嬢さんの身の安全は保障されたわけだ。蛇が死に、契約が無効となり、命が確かに元あるべきところへ返還されただろう。……しかし同時に、世界の均衡は崩れた。五大魔神の一角が崩御したことで魔神の理に乱れが生じる。そして何より……あの姫巫女自らが封印の儀を取りやめるとはな。もう既に西の虎、東の龍は、封印を破るまで秒読みじゃろう」
そして、申し訳なさそうに狐は続けた。
「そんな一大事に、お主の力のすべてが、今この瞬間に失われねばならんとは……」
朱と狐の契約——それは一瞬だけ大蛇のコアを貫く力を得ること、そして数度だけ特定の対象との位置を入れ替える権能。
その代償は、朱自身の「姫巫女としての力の喪失」だった。
「力がなくなってもできることはたくさんある。避難誘導や物資の補充、伝達とかね。……それよりも気になっているのは、雫の代償は何なんだ?」
朱は契約とは無関係に借りていた「妖刀」を狐に返却した。
「ああ、そういえばお主には話しておらんかったの。彼女と交わした代償は既に受け取っておる。契約の内容は——」
狐が答えようとした瞬間、朱の手から離れたばかりの妖刀が、禍々しく拍動した。
「ッ! これは蛇の……! まさか、強制契約かッ! お主ら、すぐに離れ——」
狐の警告が言い切られるより早く、異変が朱と雫を襲う。
朱は直感した。これは狐と契約を結んだあの時と同じ感覚だ。雫の影から、魔の手のような漆黒の触手が伸びる。
「雫!」
必死に手を伸ばすが、間に合わない。
その時——世界から色が消え、音が止まった。完全な時の静止。
その異常な空間の中で、狐だけが血反吐を吐きながら朱の肩に触れた。
「っ! 雫は!?」
「落ち着け、朱。時間を停止させた。雫も無事じゃ。……とはいえ、そう長くはもたん……!」
狐の肉体は、アポカリプスの反動で見るも無惨にひび割れていた。
「いいか、よく聞け。一度しか説明する時間はない。悩む暇もない。行動するのじゃ。……迂闊じゃった、あの妖刀には蛇の細工があったようだ。それにより、我とお主の間で契約が強制的に結ばれたのじゃ。契約の『願い』は知らぬ。だが重要なのは、その代償として、雫の命が奪われるということじゃ」
「っ! そんな、どうして……!」
「回避する方法はたった一つ。……蛇の時と同じじゃ。我を殺せ。そうすれば我とお主の間の契約は無効化され、雫も無事じゃ……」
狐は自らの胸から、光り輝く「コア」を抉り出して見せた。
「悪い冗談で済まぬな。お主らをもう少し応援したかったのじゃが……この時間停止も、もう数秒で解除される……。雫を守るんじゃろう? だったら、これを斬れ……!」
朱は苦痛に歪む狐の顔と、時の中に閉じ込められた雫の顔を見比べた。
奥歯を噛み締め、血が滲むほど拳を握る。それでも、マテリアルソードを具現化させた。
「ぐずぐずするな……! もう、持たぬ……っ!」
狐の呼吸は、すでに限界をとうに超えて荒い。
朱の視界は涙で歪み、剣を握る指先の感覚すら、泥のように鈍く失われていく。
他に解決策はないのか。もっと、もっといい方法があるはずではないのか。
雫を救いたくて、死に物狂いでここまで来た。幾度もの危険な賭けを、綱渡りで勝ち抜いてきた。
誓ったはずだった――何を犠牲にしても、彼女の笑顔を取り戻すと。
だがだからといって、目の前の誰かを失っていい理由になるわけがない。
相反する想いが胸をかき乱し、思考は空回りする。そんな朱の葛藤を置き去りにするように、無慈悲にも時は動き出す。
朱は、涙で視界を滲ませながらもマテリアルソードを強く握り直した。
そうして、時の静止が解けた。五感が一気に現実の流れを引き戻す。
——ッ!
絶叫と共に、朱は自らの手で狐のコアを叩き割った。パキィィンと、美しくも残酷な音が神域に響き渡る。
朱は、ただ浅く激しい呼吸を繰り返していた。
そして静まり返った神域の風が、物語の結末を告げた。
「……それでよい、朱」
一凪の優しい風に溶けるように、狐の声は消えた。
朱は剣を振り下ろした姿勢のまま、凍りついたように動けなかった。
己の行動の結果を悔いることも、肯定することも、否定することもできない。
ただ熱い涙が頬を伝い、地面を濡らす。
「今のは、一体……。ねえ、今あなた何を……ッ! ねえちょっと! まさか狐の神様のコアを……! ねえ、これはどういう——!」
状況を理解した雫が朱に詰め寄る。
だが振り下ろした剣を握ったまま、嗚咽さえ漏らさず涙を流す朱の尋常ならざる姿に、彼女の言葉は止まった。
雫は何も言わず、ただ朱を強く抱きしめた。
しばらくして、二人がようやく落ち着きを取り戻した頃、皓城雪が姿を見せた。
「……おいおい、私も暇ではないのだぞ。姫巫女様のお付きとして、本来お側を離れるなど言語道断。特例中の特例だ。……それで、どうして五大魔神である狐が死んでいる?」
朱は辿々しく、要領を得ないままに事情を説明した。
皓城は一切の叱責も小言も口にせず、ただその釈然としない告白を最後まで聞き届けた。
「そうか。状況は理解した」
彼女はすぐに実務的な冷徹さを取り戻した。
「私は実利的な人間だ。結果から、最も姫巫女様にとって利益ある行動を選択する。朱、雫、お前たち、力はまだ使えるか?」
朱はハッと気づく。狐が死んだことで、彼女との契約はすべて無効になった。
本来なら「姫巫女の力」を失うはずだった朱の内に、まだ確かな魔力が脈動している。
「僕は、確かに使えるようだ。しかし……」
朱が雫に目をやる。
「私も、まだ使えるようです」
「ぇ…? それはおかしくないか。契約の内容は何だったんだ?」
しかし、雫は曇り顔で首を振った。
「狐の神様と契約を結んだことは覚えているんだけど、肝心の内容がどうしても思い出せなくて。今日はそれを聞くつもりだったんだけど……」
「可能性として、契約そのものに『記憶の消去』が含まれていたのかもね」
皓城が推測を口にする。
「そしてその記憶が戻っていないこと、力が維持されていることを鑑みると、『契約の不完全性』によるものかもしれないわ。結んだ契約が、必ずしも常に完璧な効力を持つとは限らない、とかなんとか。……まあ、儲けものね。失うはずだった二人の力が残っているのなら」
皓城は立ち上がった。
「つまり、二人とも前線復帰しなさい、ってことよ!」
「僕はともかく、雫はようやく一般人に戻れたんだ。戦場に出すべきじゃない」
朱の反論を、皓城は凛とした視線で撥ね付けた。
「ふざけたこと言わないで、朱。彼女は力を得てしまった。魔物と契約を行った人間の行き先を、知らないわけじゃないでしょう」
朱は言葉に詰まった。そこに、雫の静かな決意が重なる。
「私は、大丈夫です。この力が皆さんのお役に立てるのなら。……それに、もうこんな悲しいこと、起こってほしくないから」
朱は、その決意を覆す言葉を持たなかった。自分だけ安全な場所にいろと言われて納得する彼女ではないことを、誰よりも知っていたから。
「まとまったようね」
皓城が結論を告げる。
「五大魔神のうち二体が死に、魔神のバランスは完全に崩壊した。姫巫女様が封印の間を離れたことも重なり、『西の虎』が完全に封印を突破したわ。討伐隊と姫巫女様自らが応戦しているけれど、長くは持たない。魔神討伐の経験者である二人には悪いけれど、このまま『虎』の討伐に加わってもらうわよ」
そうして、三人は狐のお社を後にした。悲しみを置き去りにする暇もなく、彼らは虎の咆哮が轟く宮殿へと、その足を進めていく。




