1-5
深夜。彼女の処刑まで、残り十七時間。
僕は再び、あの路地裏に立っていた。
「いるんだろう。魔物」
僕の問いかけに応じるように、周囲の闇がさらに密度を増し、どろりと蠢いた。
「……遅かったな」
闇の中から声が響き、それは次第に小さな人の形を成していく。
「子供……?」
「人と話すのに、あっちの姿じゃ失礼かと思ってな。ガキの姿で悪いが、これで我慢してくれ」
現れたのは、小学生ほどの少年の姿。けれど、その瞳に宿る知性は数百年を生き延びた悪魔のそれだった。
「で、何の用だ?」
僕は一呼吸置き、逃げ道を断つように告げる。
「初めて会った日の約束を、果たしたい……!」
少年の姿をした魔物が、嘲笑うように口角を上げた。
「僕には彼女を救う力がない。処刑を止める術も、逃がす術もない。だから……頼む。彼女を助けてほしい……!」
頬を伝った温い汗が地面に落ち、淡い雪のように消えていく。
「——嘘だな、そりゃ」
魔物は、僕の表情の微かな揺らぎを逃さなかった。
「……君には、そこまでお見通しなのか。でも、嘘じゃない。たとえ僕が『力』を使って彼女を救い出せたとしても、その先に彼女が平穏に笑って暮らせる世界がなければ、何の価値もない」
喉の奥に沈めていた本心を、僕は隠すことなく吐き出した。
「一生怯えながら生きろというのなら、そんな救いは救いじゃない。誰かに追われる恐怖の中で生き続ける世界に、意味なんてない」
魔物は納得したように頷いた。
「悪くない結論だ。安心しろ。逃げる時は相手の立場になって考えれば案外簡単なものだ。……その逆もしかり、な」
そこで一度言葉を切り、魔物は静かに問いかける。
「……で、覚悟はあるのか?」
「ああ」
そこに退くという選択肢は、最初から存在しなかった。
「俺はこう見えて慎重派でな。物事には正確にあたる。……だから、今回もそうさせてもらうぜ」
魔物が顎で僕の背後を指した。振り返ると、そこには——。
「っ!?」
蒼海 雫が立っていた。
「安心しろ。決意が揺らがぬよう、ここに呼んだだけだ。意識は眠っているし、お前さんの仲間にバレる心配もない」
確かに、彼女の瞳は焦点が合わず、どこか遠い空洞を見つめている。
「じゃあ、改めて聞く。覚悟はいいな?」
「無論だ。僕のすべてを賭けて、彼女を救うと誓う」
魔物がその小さな、けれど禍々しい手を差し出した。
「——魔物になれ、人間。そうすれば、今よりずっと強くなれる」
魔物を狩る者が、魔物に堕ちる。皮肉な冗談のような話だ。
僕は吸い寄せられるように、その手を取ろうと足を一歩踏み出した。
けれど、二歩目はなかった。
微かな、けれど確かな重みが、僕の服の裾を引いた。
「……?」
振り返れば、虚ろな瞳をした雫が、僕の裾をぎゅっと掴んでいた。
無意識の抵抗。それは、僕が向かおうとする「道」を否定する、彼女の魂の叫びだった。
その献身は美しい。けれど、美しさだけでは誰も救えない。犠牲なき幸福など、この世界には存在しないんだ。
僕は彼女の手を、最小限の力で振り払った。
だが、再び進行を遮られた。
今度は、より強く、逃がさないという執念すら感じる力で。
「……どうかしたか?」
「いや……」
僕は三度、その手を払う。そして心の中で謝る。
(最後に、本当の意味で君を守ることができて、僕は幸せだよ。ありがとう。だから、行かせてくれ)
そう念じて目を開いた瞬間、息が止まった。
虚ろなはずの彼女の瞳に、ひとすじの涙の跡が見えた。
「⁉ 」
しかしそれは瞬きをした瞬間に、幻のように消え去った。
だが、その一瞬で僕は理解した。
彼女は、泣きたいほどに僕を止めたいと願っている。自分一人の未来のために、僕が「人間」を捨てることを。
その強き想いが、僕の歩みを思考の渦へと引き戻した。
雪が溶けるほどの刹那の間に、僕は一つの答えを導き出す。
「……ふっ」
「……何がおかしい」
魔物の声に戸惑いが混じる。
「いや……人が人を助けたいと願うことそのものが、案外、傲慢な自己満足なのかもしれないと思ってね」
「……何だと?」
「だってそうだろう? 誰だって、自分自身の足で立ちたい。自分自身の力で未来を掴みたい。そう願って生きているはずだ」
僕は静かに息を吐いた。
「それなのに、誰かが勝手に『救い』を与え、その裏で別の誰かが犠牲になる。その事実ごと押し付けられたら――」
視線を伏せる。
「彼女はきっと、一生自分を許せなくなる」
僕は魔物の差し出した手を拒み、真っ直ぐに少年を見据えた。
「僕は最初から、世界を救うような聖人じゃない。組織の正義も、人類の未来も、僕の片手で抱えるには大きすぎる」
一度、息を吐く。
「……世界なんてどうでもいい。すべてを失ったとしても、僕はたった一つだけを守り抜くよ」
言葉にするたび、その想いだけは揺るがないのだと実感する。
「僕はただ、彼女の笑顔が見たかった。それだけだ」
僕が魔物になれば、確かに彼女は生き延びるだろう。
僕という脅威を盾にすれば、組織も容易には手を出せない。
だが――。
「そんな世界に興味はない。彼女が笑えない未来なんて、救済でも何でもない」
「馬鹿が……! 見殺しにする気か!」
珍しく熱くなった魔物に、僕は至極当然のように答える。
「そんなはずがないだろう。彼女を救い、僕も無事だ。それでいこう」
魔物は深いため息をついた。
「都合が良すぎる。契約ってのは対等でなきゃ成立しないんだぞ」
「君たちの契約が対等? 足元を見て、取れるだけ取るのが魔物のやり方だろう。……でも、ああ、そうか。解決策が浮かんだよ」
僕はニヤリと笑い、この状況を打開する唯一の「正解」を口にする。
「原因を排除すればいい。雫が処刑されるのは魔物と契約したからだ。だったら、その契約そのものを破棄すればいいんだ」
魔物は呆れたように肩をすくめた。
「落ち着け、馬鹿野郎。悪いがな、基本的に一度結ばれた契約はそう簡単に反故にはできねぇ。たとえお前が半身を差し出したとしてもだ」
その言葉に、僕は眉をひそめた。
――基本的に。
魔物は確かにそう言った。つまり、例外がある。
「……何度も言わせるな」
気づけば、僕は一歩踏み出していた。
「覚悟ならとっくにできてる。何を失うことになろうと構わない。必ず――必ず彼女を救う。そして僕たちが笑って過ごせる未来へ辿り着いてみせる」
声に力がこもる。
「だから、あるんだろう。方法が」
魔物は黙ったまま僕を見つめ――そして初めて、獲物を見つけた獣のように口元を吊り上げた。
「ふっ……」
魔物が喉の奥で笑う。
「ようやく本題に入れるな」
その瞳に宿った愉悦は、今までのどれとも違っていた。
「正直、お前が魔物になってくれりゃ話は早かったんだが、そうは望まねぇってんなら仕方がねぇ」
魔物はゆっくりと指を立てる。
「お前の言う通りだ。契約を上書きするんじゃない。――彼女の契約そのものを、破棄すんだ」




