4-11
朱は思考を巡らせていた。
今の世界の自分は、少しばかり前の世界よりも良い「過程」を辿ることができた。
犠牲は変えられなかった。それでも大切な人たちと最期の言葉を交わし、笑って送り出すことができたはずだ。
(……なら、なぜだ?)
一番初めの世界で、別の世界からやってきた「あの時の僕」の姿が脳裏をよぎる。
彼は、今の僕と同じ気持ちだったはずだ。 それなのになぜ彼は、何の躊躇もなく僕と戦ったのだろうか。
なぜ結末を知っていながら、雫の胸を貫いたのだろうか。
朱は、あの時の彼が見せた「瞳」を思い出す。
あれは、すべてに絶望しきった者の眼ではなかった。 微かな希望を、遥か遠い未来を見据えている、そんな眼だった。
(そうか……。僕に、伝えたかったんだ)
結末は変えられない。だが、過程は変えられる。
その事実を、自らの身を挺して次の自分へ繋ぐための、あまりにも悲痛なバトン。
そこまで理解した瞬間、朱の脳裏にすべてのピースを繋ぐ「一つの仮説」が閃いた。
因果の鎖が、カチリと音を立てて噛み合う。
勝てる。「これ」を逆手に取れば、すべての結末をひっくり返せる。
「……僕?」
目の前で、この世界の「若き日の朱」が驚愕に目を見開いていた。 当時の自分と全く同じ困惑。
朱は、あえて感情を殺した。ここで作戦を悟られるわけにはいかない。
人の魔神の目を欺き、感情を完全に殺した「冷徹な演者」になりきる必要があった。
朱は静かに、腰の刀を引き抜く。 あの時の「妖刀」が、鈍い銀色に光る。
「——『リンカーネーション・オーバードライブ』」
叫びと共に、地を蹴った。
そこから先は、かつての記憶の完璧ななぞり合いだった。 互角の死闘。削り合う命。
そしてエネルギーが底を突き、ただの慣性で突撃する運命の瞬間。
朱の持つ「刀」のリーチが、目の前の朱の「拳」を圧倒する。
そして割り込んできた最愛の雫の胸を、朱の刃が確かに貫いた。
「え……」
崩れ落ちる雫。絶望に打ちひしがれ、彼女の亡骸を抱きかかえて絶叫する、この世界の自分。
その凄絶な背中を見つめながら、朱は静かに歩き出した。
(僕が知っているのは、ここまでだ。……ここから先を、僕が創る……!)
朱の覚悟は、完全に決まっていた。この世界の朱を別の時空へと転移させ、満足そうに笑う人の魔神。
朱はその神に等しい存在を冷たく見据え、問いかけた。
「……おい。僕は、どうなるんだ?」
人の魔神は、可笑しそうに肩をすくめた。
「もちろん、元の世界に返してあげますよ。まあ、術の反動であと少ししたらどうせあなたも死んでしまいますけどね。ちょっと待ってください、今データの集計を——」
「そうか。じゃあ、これをやるよ」
朱は手にした妖刀を、人の魔神に向かって無造作に放り投げた。
敵意すら感じられない唐突な行為。魔神は困惑しながらも、本能的にその刀を両手で受け止めた。
直後、妖刀がドス黒く怪しく発光した。
「……っ!? 一体どういう……!」
その一瞬、人の魔神の顔から余裕が消え失せる。
だが、手の中の妖刀が放つ禍々しい輝きを凝視した瞬間、彼の底知れぬ頭脳は、その術式が持つ『意味』を瞬時に弾き出した。
狐の妖刀。『蛇』が死してなお朱を絶望へ突き落とすため、雫の命を奪うことだけを目的とした強制契約の呪い。
人の魔神はすぐに口元を歪めて嘲笑った。
「……なるほど、これはあれの悪足掻きの産物じゃないか。だが紅瀬朱、君は致命的な計算違いをしているよ。この契約を成立させるためには、『生きている生贄』が必要なんだ」
「知ってるさ。……いるだろう、この場にもう一人」
朱の言葉に弾かれたように、人の魔神の視線がゆっくりと横たわる彼女へと移る。その動揺を見届け、朱は不敵に口元を歪めた。
「そもそも、僕たちが信じていた『契約者を殺せば契約が破棄される』という前提自体が、最初から大嘘だったんだよ」
「な……に……?」
朱の瞳に静かな、しかし確固たる光が宿る。
「最初に違和感を持ったのは、狐の魔神を殺めた時だ。契約者である狐が死んだのに、雫のシールドは消えずに発動し続けていた。……あの時点で、契約そのものは残っていたんだ」
「違う……! あれは、皓城雪も言っていただろう……契約の不完全性だ! ただの、システムの歪みだ!」
必死に否定しようとする魔神の言を顧みず、一歩、朱は逃げ道を塞ぐようににじり寄る。
「次は、最初の世界で僕の前に立ちはだかった『もう一人の僕』だ。彼は雫の胸を貫いた時、悲しむどころか、まるでパズルのピースが嵌まったような眼をしていた。……彼はあの瞬間、確信したんだ。そして何より、龍の創り出した夢の世界。僕にすら効いたあの強力な催眠に、なぜか雫だけが最初からかかっていなかった。これもおそらく、蛇によって魂の所有権を奪われていたからこそ起きた防衛反応だろう」
人の魔神の顔から、急速に血の気が引いていく。
朱の紡ぐ言葉は、全知を自負する魔神自身すら深く考察していなかった因果のバグを正確に突いていた。
「極めつけは、龍を倒した直後。僕が彼女の胸に近づいた時、そこには明確な鼓動がなかった。随分と弱い、気のせいかと思うほどの微弱な脈動……。そして今、この手で彼女の胸を貫いて確信したよ。肉と骨を断つ感触はあっても、心臓を貫いた手応えが決定的に欠けていた」
朱は血に濡れた己の掌を見つめ静かに、しかし世界を震撼させるほどの声で結論を告げた。
「全部繋がった。……雫の心臓は最初から、ずっとそこにはなかったんだ。蛇が死んだ今、彼女の心臓はすでにこの世界のどこにも存在しない概念へと変えられている。だから、僕がどれだけ胸を貫こうが雫は死なないんだ」
「そんなはずはない! 契約の不完全性は存在する! ……そう、そうだ。お前の言う通り、契約者を殺しても契約が破棄されないのだとしたら、お前が狐と行った契約はどうなる! 契約が破棄されていないのであれば、お前がマテリアルの力を使い続けられていたことに説明がつかないだろう!」
哀れなほどに声を荒らげる魔神を見据え、朱は冷徹に言い放つ。
「契約の重ね掛けだ。そもそも初代姫巫女は、契約によってその力を得た。その根源たる契約が生きている以上、後続の契約でマテリアルそのものを代償に捧げることなど、最初から不可能なんだよ。……初めの世界で大蛇を仕留めきれなかった理由も、おそらくこれだ」
絶句する魔神を見下ろし、朱は続ける。
「理解できたか。これは死なない人間の魂を代償として、無限に消費し続ける契約。……最高位の魔神、お前なら分かるだろう。この異常な契約がもたらす『願い』がどうなるか」
人の魔神の身体が、初めて恐怖におののきに震え始めた。 蛇が遺した、最悪のシステム。
元は雫を贄にするためだけに組まれた檻。 その「代償」が今、朱の手によって全く別のベクトルへと転換させられようとしていた。
無限の命を支払うことで叶う、等価交換の果て。
「この願いに……『不可能』はない」
朱は天を仰ぎ、魂の底から叫んだ。
「僕は願うぞ! 安寧の日々を! 魔物や魔神に脅かされることなく、僕と、雫と、姉さんや雪さん、誰もが笑って過ごせる、当たり前の世界を——!!」
「狂っている! そんな願い、世界そのものを書き換えるぞ! 歪みで貴様らも消滅する!」
人の魔神が憤怒の絶叫を上げる。
「わかっているのか紅瀬朱! お前が今、その憶測の願いの代償に差し出そうとしているのは、他でもない雫の命だぞ! 守るんじゃなかったのか! 彼女一人の笑顔を取り戻すためだけに、お前はすべての仲間を犠牲にして、ここまで這いずってきたんじゃなかったのか……っ!」
「……守るさ」
ただ一言、朱は静かに、しかし世界を平伏させるほどの絶対の意志を込めて告げた。その瞳に宿る白銀の輝きは、いささかの揺らぎも、躊躇いもなかった。
朱は優しく、足元に横たわる雫を抱き寄せた。
朱の確信の通り、雫の胸が微かに上下しその瞳がゆっくりと開かれていく。
朱は愛おしそうに彼女を見つめ、静かに誓いを口にした。
「誓いを成すために、誓いを反故にする。僕はなんて情けない男だろう。……それでも君を救うために、君を失う選択をしたことに、後悔はないよ」
雫はかろうじて動く唇でいたずらっぽく、でもあの日と同じように微笑んだ。
「……あの時ね、最初の世界で私が死ぬとき、うまく声が出なくて、君に伝えられなかった言葉が、ずっと胸の中にあったの……」
雫の細い指先が、朱の頬を優しく撫でる。
「『大丈夫、私は君のそばにいる。……もう絶対に、忘れたりしないよ』って。……ずっと、そうやってあなたの名前を呼びたかったの、朱くん」
「雫……っ」
最初の世界で、朱が理解できることなく散っていった、彼女の最期の言葉。
それが長い時を越え、今この瞬間に朱の胸へと届いた。
彼女は薄々気づいていたのだ。だからこそあの日、自分の胸が刃に貫かれる最期の瞬間すら死を恐れず、言葉にならない声を振り絞りながら、血に濡れた手を朱へと伸ばしたのだ。
あの時、朱の手へ触れる寸前に力なく地面へと落ちてしまった指先――そこに込められていたのは、遺される朱への絶望ではなく、この確信に満ちた愛だった。
二人の手が、今度こそ固く結ばれた。
「――舐めるなよ、人間風情があぁぁぁ!!」
その絆をかき消すように、人の魔神が狂ったように吼えた。
全知全能を自負していた彼のプライドが、完全に決壊する。青年は自らの胸へと手を突き立て、体内の全ての力を引きずり出した。
空間が、世界そのものが激しく軋み悲鳴を上げる。
かつて彼がテストのために『魔神』たちに与えていた最終奥義――その本家本元、世界そのものを操る最高位の権能が顕現する。
「私の積み上げた未来を、研究を、観測を拒むというなら……世界ごと消し飛べ!! ――『アポカリプス』!!!」
人の魔神の背後から放たれたのは、文字通り世界を両断するほどの黒の奔流だった。
大地は完全に消滅し、空間の壁すらもバリバリと音を立てて砕け散っていく。
だが――。
「……バカ、な……っ!?」
人の魔神の目が、驚愕に引きつった。
世界を書き換えるはずの『アポカリプス』は二人に届く寸前、煙のように虚空へと霧散した。
相殺すらされていない。無限の命によって駆動する「新たなる世界」の前では、最高位の魔神の力すら、ただの羽虫の羽ばたきに過ぎなかったのだ。
理が完全に逆転したことを、青年は理解させられていた。
そして、最悪の気づきが彼の脳裏を駆け巡る。
(……違う。逆転したんじゃない。最初から、私は敗北していたのか……!?)
あの最初の世界で、蛇が遺した強制契約。契約者を殺しても破棄されないあの狂った呪いは、朱の『雫を救いたい』という歪な願いを、誰にも知られず裏で成立させていたのだ。
無限の命の代償は、とっくに因果を捻じ曲げていた。
本来ならば勝てるはずのなかった虎も、龍も、そしてこの自分すらも、朱たちが打倒できた理由――それは、すでに世界が彼らの勝利を『確定』させていたからに他ならない。
刹那、世界が反転した。
因果律の破壊と新生。自らが支配していたはずのシステムに呑み込まれ、人の魔神は絶叫と共に光の渦へと消滅していった。




