エピローグ
小鳥のさえずりが、心地よく鼓膜を揺らした。
カーテンの隙間から、眩いばかりの朝の光が差し込んでいる。 壁に掛けられた時計の針は、午前7時を回ったところだった。
「……あ」
朱は、ベッドの上で跳ね起きるように目を覚ました。
ひどく長い、それこそ世界の終わりを何度も巡るような、そんな夢を見ていた気がする。
だがその輪郭は朝の光に溶けるように、急速に薄れて思い出せなくなっていた。
ただ、なぜだろう。 目元に触れると、指先が微かに濡れていた。
理由のない涙。けれどその胸の奥には、何かとても温かいもの――「何よりも大切なものを、すべて守り抜くことができた」という、奇妙なほど深い安心感が確かに刻まれていた。
分かっているのは、今日が最高の休日であるという愛おしい事実だけだ。
「やばい、ぼさぼさしていられない。今日は約束の日なんだから」
朱は慌ててベッドから抜け出し、寝癖のついた髪を雑に指で整えた。
ふと、机の上に置かれた「ストラップ」が目に留まり、それを愛おしそうに見つめてから、そっとポケットに滑り込ませる。
お気に入りのシャツに袖を通し、自室の扉を勢いよく開ける。 階段を駆け下り、リビングへと向かうと、そこには。
「あ、起きたわね朱。朝ごはんできてるわよ。早くしないと遅刻しちゃうんじゃない?」
エプロン姿の翠姉さんが、フライパンを片手にいつもの快活な笑顔で振り返った。
「トーストは2枚でいいかしら? それと雪から貰ったあの美味しいジャム、塗っちゃう?」
「あ……ああ、2枚で頼むよ、姉さん」
キッチンに立つ姉の姿。その背中越しに聞こえる、穏やかな朝の物音。朱はなぜか、また胸が熱くなるのを感じながら、最高の笑顔を返した。
朝食を食べ終えると、スマートフォンがポケットの中で小さく震えた。
画面を表示すると、そこにはよく晴れた水族館の入り口の写真と共に、短く、でも世界で一番大好きな人からのメッセージが届いていた。
『楽しみ過ぎて、もう着いちゃった。待ってるね、朱くん』
「――よし、行ってきます!」
姉の温かい見送りを背に、朱は玄関の扉を勢いよく開け放った。
肌を撫でる風はどこか優しく、見上げる窓の外にはただただ青く穏やかな空が広がっていた。
魔物も魔神も、理不尽な契約も悲しい別れもない世界。
かつて彼らが命を賭し魂を燃やし尽くして手に入れた、誰もが笑って過ごせる「当たり前の日常」が、そこには確かにあふれていた。
群青は、もう鳴かない。
かつて悲劇を告げた空は、ただ祝福のように、彼らの歩む未来をどこまでも照らし出していた。




