4-10
世界が再び反転する。
気がつけば、朱はあの見慣れた、ひどく都合の良い「路地裏」に立っていた。 龍の創り出した、偽りの夢の世界。
(こんな偽物の優しさに、縋っている暇なんてないんだ……!)
朱は強く、強く拳を握りしめた。 前の世界での記憶が、彼の理性を冷徹に研ぎ澄ます。
雪さんは、何か特別な力を使ってこの世界を脱したわけではなかったはずだ。
人間の確固たる意志の力だけで、この精神の檻を食い破った。ならば、自分にできないはずがない。
「戻るんだ……! 雫のいる、現実に……!」
朱は己の意識のすべてを、魂の一点へと集中させた。
マテリアルの輝きを暴走させることもなく、他の『姫巫女クローン計画』の仲間たちの命を犠牲にすることもなく。
朱は自らの意思だけで、夢の世界の結界を内側から力任せに叩き割った。
ガラスが砕け散るような音と共に、現実の戦場へと舞い戻る。
あまりにも早すぎる帰還に、天空に浮遊する龍が、驚愕にその巨躯を震わせた。
「どういうことだ……。紅瀬朱、貴様どうやってこんなにも早くに……、それにそもそもそこの小娘はなぜ術にすらかかっていないのだ……」
龍は正しく状況を判断できていなかった。己の絶対的な催眠が、一瞬で、それも二人に破られたという目の前の現実を。
「朱……」
戻ってきた朱の耳に、懐かしい仲間たちの声が届いた。
姫巫女クローン計画。親に捨てられた孤児を拾い集めた、姫巫女の複製体を人工的に作り出す狂気の実験。
その兄弟姉妹たちが、朱以外はほとんど適性がゼロだった者たちが、朱のために祈る。
そして彼らの精神体が、朱の身体を包み込むように集束していく。
『私たちの力を、あなたに』
『どうか、生きて』
「――ありがとう。みんなの命、確かに預かった……!」
託された膨大なエネルギーが、朱の『マテリアル』へと流れ込み、白銀の輝きを爆発的に跳ね上げる。
朱は、熟知しているマテリアルの特性を極限まで引き出し、満身創痍の龍へと肉薄した。
己の力だけでは、この神に等しい存在には勝てない。それは朱自身が一番よく理解していた。
だが仲間たちから譲渡された力と、前世で培った戦闘経験のすべてが、朱の刃をかつてないほどに鋭く輝かせる。
そして前の世界よりも遥かに長く、激しく龍を戦場の底へと釘付けにしてみせた。
その結果――世界の因果が、また少しだけ動いた。
正気を保ったままの雪さんの前で、天空から目も眩むような「光の柱」が降り注いだ。
厳かな、姫巫女の継承の儀式。託されたバトンを受け取った雪さんの一撃が、ついに五大魔神の一角である龍を完全に討ち果たした。
「――あとは、任せたわよ。二人とも」
『リンカーネーション・オーバードライブ』の反動で、その身体を光の粒子へと変えながら、雪さんは最期にそう微笑んだ。
朱はその消えゆく先をまっすぐに見つめ、深く、深く頷いた。
「ああ、もちろん」
そのすべてを知っているかのような朱の返答に、雪さんは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
だがすぐに、心から安心したようにその頬を緩ませ、光の粒子となって静かに消えていった。
静寂が戻る。
激戦の終わりを見届けた朱は、張り詰めていた糸が切れたように、その場に膝を突いた。
真っ先に向かったのは、傍らでぐったりと横たわっている雫の元だった。
(終わった……。雫、無事か……?)
前の世界では、激戦の後にその生存を確かめる余裕などなかった。だが今の朱には、ほんの僅かだけ先を見通すだけの心の余白がある。
朱は生存を確かめるため、雫の制服の胸元へとそっと耳を近づける。
「……ん?」
微かな呼吸の温もりはある。生きてはいる。
だが奇妙な感覚が残った。
(……気のせいか? 随分と、鼓動が弱いような……)
その小さな違和感の正体を、深く思考しようとしたその刹那、世界が残酷に駆動した。
そして、朱の意識は再びあの暗黒の渦へと呑み込まれていく。 次に目覚める場所がどこであるか、朱にはもう完全に予想がついていた。
視界が爆発的な光に包まれる。
激しい風の音。 耳に飛び込んできたのは、あの「人の魔神」の狂気に満ちた叫び声だった。
「だから私は『主人公』ってやつが、大ッッッ嫌いなんだ……!」
状況は、完全に一致していた。 人の魔神の手によって、別世界から召喚された「もう一人の紅瀬朱」。
今度は、朱自身があの濁った瞳をした「もう一人の自分」の立場になって、この戦場に立っていた。




