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気がつけば、朱は別の世界へと転移させられていた。
だがその場面は、人の魔神によって召喚された「もう一人の朱」としての立場ではなかった。
(……何が、起きてるんだ……?)
つい先ほど目の前で刀に貫かれ、自分の腕の中で息絶えた雫の、あの悍ましい絶望の感触がまだ両手に生々しく残っている。
愛する者を失った直後の激しい困惑と、歪む時空の目眩のなかで、朱の思考は目の前の現実に追いつかずにいた。
朱は、激しく荒い呼吸を繰り返していた。 生々しい水の臭いが鼻腔を突く。
視界に飛び込んできたのは、かつて死闘を繰り広げた、あの「大蛇」の巨躯だった。
なぜ死んだはずの魔神が目の前にいるのか。あいつが言っていた「別の世界」の意味を深く考える余裕すら、今の朱にはない。
ただ大蛇の9つの首のうち、1つが切り落とされている光景を見て、朱の脳裏に記憶がフラッシュバックする。
ここは、かつて死闘を繰り広げた「あの場面」だ。
あたりを見渡すと、そこには——ちゃんと雫が、生きて立っていた。
(雫……!)
すぐにでも駆け寄って、その身体を強く抱きしめたかった。 生きていてくれてありがとうと、守れなくてごめんと言葉をかけたかった。
しかし、あの最悪の結末を絶対に繰り返してはならないという強烈な危機感が、朱の足を震わせ、その衝動を必死に抑え込ませる。
この大蛇との戦闘に完全な勝利を収めない限り、想いを伝える未来すらやってこない。
それに、この時点の雫はすでに記憶を失っているはずだ。今ここで感情をぶつければ、彼女に無用な困惑を与えてしまうだけだった。
「……あと、8本。いけるな?」
鼓膜を揺らしたのは、久しぶりに耳にする、懐かしい相棒の声。
朱はその隣に立つ存在を見つめ、力強く応じた。
「当たり前だッ!」
その返答が予想以上に気迫に満ちていたからだろう。 魔物の姿へと変わり果てた相棒——蒼海吹は、嬉しそうに低く笑った。
そこからは、朱の記憶通りに戦局が再現されていく。
狐の「位置交換」と「限定契約」の力を利用し、朱は大蛇のコアを目がけて鋭く踏み込んだ。 刃がコアを貫く。
しかし朱は知っていた。これだけでは大蛇は死なない。
(前の世界と同じ過ちは、絶対に繰り返さない……!)
朱は己に宿るすべての力を、一点へと全力で込め直した。
朱が危惧していたのは、この後の展開だった。
大蛇の放つ滅びの技「アポカリプス」を止めるため、前の世界では吹が自らを犠牲にしてしまった。
だが、世界の歯車は確実に異なった音を立て始めた。
大蛇が咆哮を上げても、あの凄惨な大嵐が吹き荒れなかったのだ。
朱が全力を賭して放ったコアへの追撃。それが大蛇の魂を、前回の世界以上に深く削り取っていた。
激しい光の霧となり、大蛇が崩壊していく。 討伐は成功した。
しかも、前の世界では為し得なかった「吹が無事である」という、最高の状況を保ったままで。
朱の胸に、確かな喜びが湧き上がる。
しかし、世界はその奇跡を容易には肯定しなかった。
大蛇の消滅と足を揃えるように、吹の輪郭が不意に薄れ始めた。
粒子となって消えゆく自らの身体を見つめ、吹は困ったように笑う。
「仕方がないさ。俺はあいつの使役魔物だったんだ。主人がいなくなれば、俺だって消える。……姉さんのこと、任せたぞ」
「吹……? 嫌よ、待って、吹ーーっ!!」
背後から響いたのは、雫の引き裂かれそうな絶叫だった。
届かないと知りながらも、必死に弟へと伸ばされる、その細い手。
前の世界では、大嵐の中でただ理不尽に奪われた命だった。
だが今は違う。消えゆくその最期に、少なくとも姉弟は互いの顔を見つめ、言葉を交わすことができたのだ。
吹は雫の涙を見て、満足そうに微笑みながら優しく光の中へと消えていった。
そして朱の視界が再び、ぐにゃりと歪んだ。




