4-3
「人の魔神……」
朱の乾いた唇から、その言葉がこぼれ落ちた。 目の前の青年には大蛇のような巨躯も、虎のような圧倒的な闘気もない。
だが、その「ただの人間にしか見えない」という事実そのものが、逆に底知れぬ不気味さを醸し出していた。
「そう、人の魔神さ」
青年は小さく息を吐き、困ったように肩をすくめた。
「それにしても、君たちには本当に手を焼かされたよ。私が運用試験中だったペットたちを、ことごとく壊してしまうんだから」
「ペット……?」
朱の目が微かに見開かれる。 世界を滅亡の淵に追いやったあの魔神たちを、青年は今ただの飼い犬のように称した。
「そうだよ。まあ、必要最低限のデータは採取できたし、バックアップもあるからいいのだけれどね。でも、本当に手荒な真似をしてくれる」
青年が空間に向けて、細い指先を軽く振る。
その瞬間、彼の周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。 現れたのは、四つの小さく透明な硝子瓶だった。
「——ッ!」
背筋に、冷たい戦慄が走る。
瓶の中には、それぞれ手のひらほどの大きさに縮小された、蛇、狐、虎、そして今しがた倒したはずの龍の姿があった。
それらはまるで標本のように、静かに青年の傍らで浮遊している。
これまで戦ってきた魔神は、この「人の魔神」の支配下にある使役された魔物に過ぎなかったのだ。
五大魔神の頂点。その絶望的な格の差が、視覚となって突きつけられる。
だがこれほどの危機的状況にあっても、朱の心は驚きに震えることはなかった。
すでに、彼の心は死んでいた。
命を懸けて守ってきたはずの雫が、自分を覚えていない。その事実だけで、朱のすべての気力は跡形もなく消え去っていた。
「……あなたを倒せば、全てが終わるのね」
静寂を引き裂いたのは、雫の声だった。
彼女はふらつく足取りながらも、青年をまっすぐに見据え、毅然と立ち上がった。
記憶を失った自分にできることは何もない。 だからこそ、彼女は決意したのだ。
これまで死んでいった、名前も知らぬ者たちの犠牲を無駄にしないために。 最後の魔神へと、そのおぼつかない身体を向けた。
青年は雫のその宣誓を、楽しげに受け入れた。
「いい覚悟だ。だがね、お嬢さん。君たちはここまで来るのに、あまりにも多くのものを失いすぎた。今の君に残されているのは、その不完全な、いつ壊れるかもわからない盾だけだ」
青年の冷徹な視線が、地面に座り込んだままの朱へと移動する。
「そして紅瀬朱。君には、もう何一つとして残っていない。戦う力も、マテリアルも、すべてを使い果たした。そんなボロボロの二人で、この私に挑むというのかい? 無理だよ」
そんなことは、魔神に言われるまでもなく理解していた。 手札は既に一枚もない。
それでも、雫は自らの奥底にある魂を奮い立たせた。まだ生かされている意味が、ここにあるはずだと信じて。
「朱! 立ち上がって!」
雫は、虚空を見つめる朱に向かって初めてその名を叫んだ。
「これまでの犠牲を、みんなの覚悟を、意思を……! 私たちに想いを託して死んでいった人たちのことを、思い出して!!」
必死の叫びだった。
しかし、その言葉は朱を奮い立たせるどころか、逆に彼の最後の生命線を断つ結果となった。
朱は、力なく自嘲気味に笑った。
「君は……本当に、あの雫じゃないんだね。雫は僕のことを、『朱くん』って呼ぶんだ……」
分かっていた。真実を知った朱が、自分の声に振り向くことはないと。
だが、それでも雫も引かなかった。 彼女は涙を浮かべながら、言葉を激しく返した。
「そうよ! 私は君が知っている、君が好きになってくれた人じゃないのかもしれない! 君をなんて呼んでいたかも、私は知らない! だから今まで、名前を呼ぶのが怖くて、ずっとためらってきた!」
一歩、雫が前に踏み出す。
「それでも、私は君の名を呼ぶよ! だって……だってたぶん、あの時の私と、今の私の気持ちは、絶対に同じはずだから!」




