↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/36

4-2

朱と雫が弾かれたように振り向くと、抉れた大地の向こうから一人の青年が歩み寄ってくるところだった。


場違いなほど仕立ての良い衣服を纏い、足取りはひどく軽い。


そこには魔神特有の禍々しいプレッシャーも、戦場に漂う血生臭さに対する嫌悪もなかった。


ただどこか悲しげに、そして酷く冷徹に二人を見つめている。


本来なら警戒すべきだった。新手の敵かもしれないと、身構えるべきだった。


だが今の朱の頭は、そんなことよりも何倍も重要な「絶望」に支配されていた。


「どういう、意味ですか……」


朱は青年を睨みつけながら、掠れた声を絞り出した。


「覚えていないって……雫が僕を覚えていないなんて、そんなわけ……!」


青年は足を止め、哀れみの目を朱に向けた。


「簡単な因果だよ。彼女は狐の魔神との『限定契約』によって、魔神の攻撃すら防ぎ切る鉄壁の防御を手に入れた。……だが、魔神との契約には必ず相応の『代償』が必要だ。彼女が支払ったのはね、紅瀬朱。——君との記憶、そのすべてだよ」


「——ッ!」


朱の視線が、ゆっくりと雫へと移動する。


雫は朱と目が合うと、申し訳なさそうに、そして耐えきれないといった風に視線を落とし小さく肩を震わせた。


その反応が、何よりも雄弁に青年の言葉が「真実」であることを証明していた。


「雫……君、知っていたのか……?」


「……ごめんなさい」


雫の声は、蚊の鳴くように小さかった。


「目が覚めたときから、私の中に何もなかったの。私のために誰よりも傷ついて、誰よりも必死になってくれる人がいることは、感覚でわかった。でも……名前も、出会った思い出も、私たちがどんな関係だったのかも、何一つ思い出せなくて……」


彼女は知っていたのだ。 自分のために世界を敵に回して戦う少年がいて、自分はそれを「忘れてしまっている」という、最悪の、あまりにも残酷な事実を。


だが、傷だらけになりながら「君を守る」と誓う朱の圧倒的な決意を前に、彼女はそれを切り出す機会を、完全に失っていたのだ。


「そんなはずは、ない……」


朱は激しく首を振った。現実を拒絶するように、言葉が溢れ出る。


「だって、君は今までも、僕のピンチを助けてくれた! 何も言わずにみんなを守って、僕の戦いをサポートしてくれたじゃないか! 関係性を疑うような仕草なんて、一度も……!」


「君さぁ」


青年が、困惑する朱の言葉に呆れたような、しかし核心を突く問いを投げかけた。


「彼女に、一度でも『名前』を呼ばれたことがあったかな?」


「あ——」


朱の脳裏に、これまでの戦いの光景が走馬灯のように駆け巡る。


大蛇との戦い、白虎との決戦、そして老龍の激戦。


確かに、雫はいつも的確に朱を助けてくれた。だが、彼女は一度として「朱」の名を呼ばなかった。


いや、呼んだことがあった。だがそれは——先ほどまで囚われていた、龍の創り出した『偽りの夢の中』だけだった。


現実の彼女は、ずっと朱の名前すら知らなかったのだ。


「そんな、嘘だ……。じゃあ、なんで……」


朱の呼吸が荒くなる。彼は縋るように、次の疑問を口にした。


「契約の……そう、契約の破棄だ! 狐は、僕自身がこの手で討った! 契約者が死んだなら、契約は破棄され、代償として奪われた記憶だって元に戻るはずだろ……!?」


その必死な問いかけに、青年も、そして雫すらも哀れむように首を振った。


「本当に君は、前しか見えないんだね。少しは周りを観察したらどうだい?」


青年は雫の身体を指差した。


「簡単なことだよ。彼女の能力は、未だに有効だ。現に、さっきまで龍の攻撃を防いでいただろう? 能力の基盤である契約が生きている以上、代償が返ってくるはずもない。……君の組織の、あの雪という少女が言っていなかったかい? 『契約の不完全性』について」


「あっ……」


「契約は必ずしも100%の効力を持たないこともある。もっとも、これまでの彼女の言動を見れば、完全に君を忘れたというわけでもなさそうだ。脳の記憶領域からは消去されていても、魂の、本能の領域に焼き付いているんだろう。なんとなく『この人は絶対に自分を裏切らない、信用できる人間だ』と、本能が理解している。だからこそ、彼女は名前も知らぬ君のために、命を懸けてここまでついてきた」


「……」


朱の口から、反論の言葉は二度と出てこなかった。


今まで必死に、文字通り命を懸けて、いやそれ以上に大事な仲間たちを、姉さんを、すべてを失いながら守ってきた最愛の人が、自分のことを何一つ覚えてなどいなかった。


自分が捧げてきた血と涙のすべては、彼女にとっては「名前も知らない見知らぬ少年からの、理由なき狂信」に過ぎなかったのだ。


雫は絶望に打ちひしがれる朱を見て、何かを言おうと小さく唇を動かした。


だが今の自分が紡ぐ言葉が、朱が本当に欲している『あの頃の雫』の言葉ではないことを彼女自身が誰よりも知っていた。


ゆえに、彼女はそっと口を閉じ、再び沈黙を選んだ。


誰も喋らない、壊れた世界。 その中心で青年は満足そうに微笑み、静かに自らの素性を口にした。


「さて、お互いの事情も整理できたところで、私の自己紹介をさせてほしい。——私の名は、特にない。ただ、君たちの言葉で言うならば」


青年は、一切の威圧感を持たない、どこまでも穏やかな声で告げた。


「五大魔神の最後。——『人の魔神』、とでも呼んでもらおうか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。