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龍は傲慢な魔神ではあったが、同時に恐ろしいほどに冷徹で「狡猾」だった。
朱の放つ黄金の力が己を消滅させかねないと察知した瞬間、龍は即座にプライドを捨て去った。
朱の制限時間が切れるまで徹底的に距離を取り、逃げ切る。その泥臭くも確実な戦術こそが、龍の導き出した最適解だった。
「逃がすか……っ!!」
朱は地面を蹴り、猛然と間合いを詰めていく。狙うは最大の一撃、ただそれだけだ。
黄金の閃光と化した朱の突進は、音速を超えて龍の懐へと肉薄する。
しかし、龍の巨躯は空間を滑るように後方へと引き下がっていく。朱がどれほど速度を上げようとも、龍はその先を読み、紙一重の距離を維持し続けた。
空を裂く朱の拳。だがそのすべてが、紫煙の残骸を切り裂くだけに終わる。
一撃、二撃、三撃。
渾身の猛攻がことごとく空を切り、戦場の空間だけが爆発を繰り返した。
朱の胸中に、じりじりと焦燥感が募り始める。
(クソ、掠りもしない……! 早く、早く仕留めなければマテリアルが消える!)
焦りが、朱の動きをわずかに乱していく。息が荒くなり、足運びの精度が落ちる。
朱の精神は、終わりのない底なし沼に落とされたかのように狂い始めていた。
だが、追い詰められていたのは朱だけではなかった。
朱の放つ猛撃は、ただの物理攻撃ではない。掠めるだけで世界の物理定数を崩壊させるほどの力だ。
完璧に見切っているはずの龍も、その凶悪な密度に一歩、また一歩と選択肢を削られつつあった。
すでに限界は近かった。それでも朱が放った十数発目の回し蹴りは、軌道を強引に捻じ曲げて龍の逃げ道を完全に塞ぐ。
その変則的な一撃こそ、執念の結晶だった。
(……チッ! 空間転移が間に合わんか!)
龍の美貌に、初めて微かな焦燥が走る。まともに喰らえば存在ごと消し去れかねない。
龍はその絶対的な突進の威力を真横へ受け流すべく、上体を大きく仰け反らせながら斜め後方へ深くステップせざるを得なかった。
それは、朱の猛嵐のごとき圧力に押された龍が、ついに露呈した決定的な隙。
ほんの数センチ、龍の防御姿勢が明らかに甘くなった、絶好の、そして唯一無二の勝機だった。
「そこだぁぁぁッ!!」
朱は叫んだ。焦燥から解放された歓喜とともに、残された全ての力を右拳に収縮させる。
朱は肉体が千切れるほどの踏み込みを見せ、無防備に晒された龍の胸元へと、渾身の一撃を放った。
空気が爆ぜ、空間が歪む。攻防戦は、これで決したかのように思えた。
しかし——。
「——かかったな、人間」
龍の冷酷な声が響いた瞬間、その肉体があり得ない角度で収縮し、朱の拳を完全に無力化した。
逃げ道を塞がれた窮地すら、この魔神は逆手に取っていた。
あえてステップを遅らせ追い詰められたフリをし、朱の焦りを誘って大振りの一撃を誘発させる。
これ以上かわし続けるのは不可能と察した一瞬で、龍は己の身を餌にした「ブラフ」へと戦術を切り替えていたのだ。
「ふははは、我が浅知恵に容易く乗るとは。やはり人間、その程度の器よ」
作戦の成功を確信した龍の口元から、愉悦の笑みがこぼれ落ちる。
全力の一撃をかわされ、朱の肉体は完全に勢いを失っていた。
力を使い切り、硬直した朱の無防備な背中。そこへ、龍の爪が死神の鎌のように、容赦なく振り下ろされた。
ドゴォン!! と、肉体を消滅させるための絶対的な衝撃が朱を捉える。
だが、引き裂かれた「朱の肉体」は手応えもなく黄金の粒子となって霧散した。
「——騙し合いは、僕の勝ちだ!」
龍の完璧な罠に嵌まり、力を使い切って死ぬはずだった朱――それこそが、マテリアルで編まれた【幻影の変わり身】だったのだ。
龍の読みを、さらにその先からハメ返すための二重の罠。
「……なに!?」
勝利を確信した瞬間に標的を見失い、龍の美しい貌が驚愕に凍りつく。
その死角――真上から、冷徹な声が降り注いだ。
「これで、終わりだぁぁぁッ!!」
上空から急降下する朱の右拳。そこには、正真正銘の「最大限の渾身の一撃」が凝縮されていた。
龍が上空を仰ぎ見たときには、すべてが遅すぎた。
ドォォォォォォンッ!!
朱の拳は、かつて翠がその命のすべてを燃やし尽くして穿った、「龍のコアの消えない傷口」へと、1ミリの狂いもなくまっすぐに命中した。
世界が反転したかのような、真白な衝撃波が戦場を薙ぐ。
龍の巨体が、その胸元から夥しい黄金の血を噴き出しながら、凄まじい地響きを立てて大地へと叩きつけられていった。
朱の肉体からも、マテリアルの輝きが完全に消滅し、ただの空っぽの器となって地面に着地する。
次の一手は、もう何一つとして残されていなかった。
勝った。極限の心理戦の末に、姉さんの仇を、ついに討った。
そう確信し、朱が血を吐きながら膝を突いた、その時だった。
倒れていた龍の口元が不気味に、そして激しい屈辱と愉悦の入り混じった形で歪んでいく。
「——『アポカリプス』」
その言葉を紡いだ瞬間、世界から音が、意味が、歴史が消え去った。
時間が停止したのではない。龍は、自身の力を以て世界の「時間軸そのもの」を強引に捻じ曲げ、再構築したのだ。
朱の視界がぐにゃりと歪む。
今さっき起こったはずの「朱の渾身の一撃が、龍のコアの傷口に直撃した」という確定した事実そのものが、因果の彼方へと書き換えられていく。
気づけば、龍のコアは何でもないように光を放っていた。
「……っ!? なに、が……」
「我がアポカリプスは、世界の因果を都合よく捻じ曲げる。君の一撃は確かに凄まじかった。だが凄まじすぎたがゆえに、私はそれが『直撃しなかった結末』に選び直させてもらったよ」
胸元にわずかな擦り傷を負っただけの龍が、再び何事もなかったかのように悠然と立ち上がる。
対する朱は、すでにマテリアルの力——姫巫女としての力をすべて出し切り、ただの無力な人間に戻ってしまっていた。
雫は倒れたままであり、周囲の組織の戦闘員も全滅している。
完全なるチェックメイト。
すべてを出し尽くした末の、あまりにも残酷な絶対の絶望。
誰も声を発することすらできない死の静寂が、戦場を支配した。




