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「ねえ朱君。今度、隣町にすっごく大きな水族館ができるんだって。いつか一緒に行ってみたいな」
雫は隣で弾むような声を上げた。
「そう、ですね……」
僕は視線を落とし、曖昧な生返事で言葉を濁す。
「隣町」——それは彼女にとって、果てしなく遠い異世界と同じだ。彼女がその場所を踏む日は、おそらく永遠に来ない。
そう知っているのは、隣を歩く僕だけだった。
「あー、また敬語。同い年なんだから、なしって言ったじゃん!」
「何度も申し上げますが、私は蒼海様の護衛任務に就いております。そのような口の利き方は些か……」
「はぁ、かったいなー。今は二人っきりなんだからいいでしょ? というか、二人の時は禁止。わかった?」
「え、あ、はぃ……。……わかった、よ」
不器用な僕の返答に、雫は満足そうに目を細めてはにかんだ。その無邪気な笑顔を見つめるたび、胸の奥で罪悪感が棘のように刺さる。
「あっそうだ。明日、駅前のショッピングセンターまで買い物に行きたいんだけど、いいかな?」
駅前。最も人の目が集まり、同時に死角も多い場所。組織が許可を出すはずがない。
「すみません、人混みの多い駅前はまだ……」
「ええー、またダメなの? ……ねえ、じゃあさ。お上には内緒で、こっそり抜け出しちゃわない?」
雫がふわりと振り返る。至近距離で見つめられ、熱を帯びた彼女の吐息が届く距離に、思わず心臓が跳ねた。
「だ、ダメだよ。外出許可がないと……」
「ふふっ、冗談。ごめんね。もしそんなことしたら、朱君がすっごく怒られちゃうもんね」
雫は悪戯っぽく笑って前を向く。
初任務にして、この特異な監視任務。そもそもなぜ、失敗作扱いの僕が選ばれたのか。雫を巡る状況は、彼女が思うよりずっと残酷だ。
「はぁ。でもスイーツフェア、明日までなんだよね。代わりに朱君、買ってきてよ」
「護衛の任務を離れるわけにはいきません。……僕だって、本当は食べたかったのに」
「ふふ、朱君も甘いものには目がないもんね」
糖分摂取は、脳の演算速度を保つための必須要件だ。実戦において、わずかな思考の遅れは死に直結する。
……もっとも、僕が全力を出さなければならない日が来ないことを、今はただ祈るばかりだが。
「でも、なんでこんな時に限って私がテロリストなんかに狙われちゃうのかなぁ」
「……理由は、申し上げられません」
「あーあ。急に活動が制限されるなんて思ってもみなかったな」
不平を漏らしながらも、彼女の横顔にはどこか穏やかな色が混じっていた。
その時、左胸のポケットで振動が走った。
定時連絡外。緊急を要する、あるいは組織外からの割り込み。僕は足を止めた。
「すみません、少し……」
雫から距離を取り、通話ボタンを押す。
「はい、紅瀬で——」
『おっっそーい! 遅い遅いっ、ぷんすかっぷんすかっ!』
鼓膜を突き抜けるような、騒がしくも聞き慣れた声。
「す、すみません、姫巫女。ご存じかと思いますが、今、東地区の件で——」
『あー、知ってるよ。順調そうだね。でもお姉ちゃんの電話には0.5コールで出ること! それになんで敬語なのさ』
「……ごめん。わかったよ」
現姫巫女こと鶯衣翠の無茶ぶりに、僕は溜息混じりに頷く。
『うんうん。にしても相変わらず真面目だね。君は本当に、組織の中でも一番の「いい子」だよ。……あ、そうだ、そんな話をしに来たんじゃなかった』
一転して、翠の声から浮ついた熱が引いた。
『今、女の子と付き合ってるんだって?』
「……っ!?」
思わず、声にならない叫びが漏れる。
『はっはっはっ、照れない照れない。いい、間違ってもその子を傷つけちゃダメだよ。何かあったらすぐお姉ちゃんに連絡すること。特に——魔物から「交渉」を持ちかけられた時は、ね。それじゃ、がんばって!』
一方的に通話が切れる。
「魔物からの交渉」……。組織の参謀すら把握していないような事態を、彼女は予見しているのか。それとも、すべてを知った上で僕を煽っているのか。
「今の、女の人? 急に切れたみたいだけど」
振り返ると、すぐ後ろに雫が立っていた。
「いや……姉です」
「ふーん、お姉ちゃんいたんだ。そっか。……朱君はお姉ちゃん思いの弟君なんだね」
彼女が納得したように微笑む。
その背後、一台の黒塗りのセダンがこちらへ速度を落として近づいてきた。その瞬間、僕の思考は「日常」から切り替わる。
周囲の遮蔽物の位置、路面の状態、車中の人数、殺気の有無——。
無意識のうちに一歩前へ出る。雫との距離を遮るように立ち、淡い光を帯びたマテリアルをわずかに展開した。
伸ばした片手は自然と彼女を庇う位置に収まり、警戒の意識だけが静かに研ぎ澄まされていく。
過ぎ去る一瞬。車内を確認するが、ただの一般車だ。組織の閲覧を抜けてここにあれが来る可能性は極めて低いが、身体が勝手に最適解を選んでしまう。
「……目つき、変わるよね」
「え?」
雫の呟きに、僕は意識を引き戻した。
「いつもは、押せば倒れそうなくらい頼りなく見えるのに。お仕事モードになると、途端に牙が生えたみたいになる。……そういうところ、カッコいいと思うよ」
「あ……」
今度はごまかせなかった。顔に血が上るのが自分でもわかる。
「あ、ち、違うの! 好きっていっても、そういう恋愛とかじゃなくて! 尊敬というか、憧れというか、そのっ、とにかく今のなし!」
彼女は顔を真っ赤にして手をぶんぶん振り回し、慌てて歩き出した。
僕は呆然とその後ろ姿を追いかける。「好き」だなんて、言葉にすらなっていなかったはずなのに。
帰り道を歩き終え、玄関の前で彼女を見送る。
「お疲れ様、朱君。また明日ね」
雫は微笑んで、屋敷の中へと消えていった。今日の任務は、これで終わり。
けれど、彼女は知らない。僕の任務が終わっても、彼女を監視する無数の「眼」が消えることはない。
この平穏な家でさえ、彼女は二十四時間、常に銃口を向けられているに等しいという現実を。




