3-5
朱が言葉を絞り出した瞬間、足元の湿ったコンクリートが、生き物のように小さく波打った。
「良い覚悟だ、朱。だけど、ここから先は僕たちにとっても本当の地獄になる」
幼き日の朱の姿をした少年——マテリアルは、悲しげに目を細めながら、自らの小さな胸へと手を当てた。
その輪郭が、蛍の光のように淡く不規則に明滅し始める。
「今から、僕の存在そのものを触媒にする。魂の結合を分子レベルで強制分解し、その際に出る膨大な反発エネルギーをこの閉鎖空間の『殻』へぶつける。……君を現実へと帰還させるためにね」
魂の分解。膨大な反発エネルギー。その正体を朱は知っていた。
オーバードライブ。
朱の脳裏に隊長の、翠の最期の場面がよぎった。
「待て……! それはつまり、君が消えるということじゃないか! また、仲間を失うのか! 君がいなくなったら、僕はこれからどうやって戦えばいいんだ!」
朱の叫びは、急速に冷え切っていく路地裏の空気に掻き消される。
「大丈夫だよ」
マテリアルは優しく微笑んだ。
「僕は君の力の一部だけど、僕という個体の意識は消えても、君には影響はない。ただ今まで使えていた些細な力がなくなるだけだ」
「ふざけるな……っ!」
朱は叫び、消え入りそうな少年の肩を掴もうと両手を伸ばした。しかし、指先は光の粒子を虚しくすり抜け、冷たい空気だけが掌に残る。
「些細な力なわけがないだろう! ここまでずっと、ずっと君と一緒にきたんじゃないか……! それを簡単に、消えるなんて言うな! なんでみんな、僕を置いて簡単に死んでいくんだよ……!」
ボタボタと、地面に朱の涙が落ちて弾ける。既に多くの者を失い、さらに自分自身の一部さえも失わなければならない理不尽に、朱の身体は激しく震えていた。
マテリアルはただ泣きじゃくる朱を愛おしそうに見つめ、静かに首を振る。その全身が、いよいよ強烈な光を放ち始めた。
少年が小さな両手を広げ、自決の術式を編み始めようとした、その時だった。
「——最高傑作の君が、こんなところで『力』を削っているなんて、割に合わないな」
唐突に、低くくぐもった声が影の中から響いた。
驚いて朱が振り返ると、暗闇の奥から十人の少年少女たちが静かに歩み出てきた。
ある者は全身に痛々しい包帯を巻き、ある者は欠損した四肢を義肢で補い、ある者は血に汚れた制服のまま、生気のない顔で朱を見つめていた。
学校の廊下や街の雑踏で、幽霊のように現れては消えていた、あの「顔も名前も思い出せない仲間たち」だった。
「お前、たち……。一体誰なんだ? なぜ、僕のために……」
涙を流す朱の問いに対し、先頭に立った片目を潰された少年が自嘲気味に口元を歪めた。
「名乗るほどの名前なんてないさ。僕たちは君と同じ揺り籠から生まれ、君のようにはなれなかった、ただの『失敗作』だからね。だけど僕たちの短い人生にも、たった一つだけ誇れることがある。それは僕たちの命のすべてが君という、『最高傑作』を完成させるための、精巧な部品だったということだ」
少年たちの身体から一斉に、どす黒くも力強い粒子が噴き出し始める。
「こんな偽物の世界、中と外から同時に叩けば、失敗作である僕たち程度の微々たる力でも十分にぶち破れる。君の『力』を、こんなところで失うわけにはいかないんだよ。現実へ戻り、本当の決着をつけてくれ」
「待てっ……やめろ! 君たちまで、僕のせいで消えるというのか……!」
朱が叫んだ瞬間、十人の足元に黒い幾何学模様の術式が一斉に展開された。空気の振動だけで、それが引き返しのつかない「魂の完全燃焼」の儀式だと分かってしまう。
「やめろっ……! 頼むからもう、僕の前で誰も死なないでくれ!」
朱はがむしゃらに手を伸ばし、片目の少年の肩を掴もうとした。
しかしその手は触れる直前、激しい衝撃波によって弾き飛ばされる。コンクリートの床に叩きつけられながら、朱は信じられない思いで彼らを見上げた。
弾いたのは、敵の攻撃ではない。少年たちの、あまりにも強固な『意志』だった。
「もういいの、朱。止めないで」
包帯を巻いた少女が、酷く穏やかな、だけど一切の揺らぎのない声で言った。
義肢の少年も、血に汚れた制服の少女も、その瞳には悲壮感などなくただ前だけを見据えている。
朱の胸に、冷徹な事実が突き刺さる。
彼らは自暴自棄になって死に急いでいるのではない。
ただの部品として処理されるはずだった自分たちの命を、自らの意志で、最初で最後に「誰かを救うための力」として使おうとしているのだ。
ここで朱が泣いて彼らを止めようとすることは、彼らがようやく見つけた『生きた証』と『人間の意地』を、踏みにじることに他ならなかった。
(ああ……そうか。それは、君も同じだったんだな、マテリアル)
朱は、静かに光を放ち続ける幼き日の自分の姿を見つめた。
「影響はない、ただの些細な力だ」とマテリアルは笑った。それは嘘でも誤魔化しでもない。
自分という存在から生み出された力だからこそ、朱に未練を残させまいとする、彼なりの強がりであり、気高い「意志」だったのだ。
身を挺して道を切り拓こうとする十人と、朱を支えるために自らを犠牲としようとしたマテリアル。彼らの姿が重なり合う。
認めたくはなかった。大切なものを切り捨て、誰かの命を踏み台にして生き残るなど、耐えられるはずがなかった。
けれど、彼らのあまりにも気高く、痛烈なまでの覚悟の眼差しを前にして、朱はこれ以上の拒絶を喉の奥に押し戻されるしかなかった。
彼らの想いと共にすべて背負って前へ進む。その理不尽な決別を、血を吐くような思いで受け入れるしか、今の朱には道が残されていなかった。
朱が歯を食いしばり、血がにじむほど拳を握りしめて押し黙ったのを見て、十人は満足そうに小さく微笑んだ。
彼らの身体が内側から燃えるように輝きを増し、世界の「殻」が悲鳴を上げ始めた、まさにその時。
時が止まったかのように、世界が急速に凍りついた。
「朱くん……?」
背後から、心臓を物理的に握りつぶされるような声が聞こえた。
いつの間にか路地裏の入り口に、この世界の朱の恋人であるはずの「雫」が佇んでいた。
「どうしたの? どこに行っちゃうの? ずっと一緒にいるって、約束したのに……」
怯えたように首を傾げる彼女の瞳には、何の濁りもない純粋な愛だけが宿っていた。
朱は、その視線をまっすぐに見据えることができなかった。
目の前にいる彼女が、龍が用意した中身のない精巧な「人形」だと分かっていても、その表情も、声も、朱が心の底から愛した雫そのものだったからだ。
ここで引き返せば、この優しい人形と永遠に終わらない、痛みのない幸福な青春を貪ることができる。現実の苦痛も、誰かの死を見る絶望も、すべてから解放されて。
だが、だからこそ——十人の命を、その覚悟を背負ったからこそ、朱の決意は冷徹な鋼となった。
(ここで僕がこの温もりに甘えたら……現実で、血を流しながら僕を守っている本物の君を、そして今ここで僕に未来を託してくれた彼らを、誰が救うんだ!)
朱は人形の雫へと、完全に背を向けた。
「待っていてくれ。本物の君を……必ず、僕が助ける……!」
クローン計画の失敗作として、歴史の闇に葬られ、誰の記憶にも残らず死んでいくはずだった十人の少年少女たちが、最初で最後の人間の意地を込めて同時に吼えた。
「行け、僕たちの最高傑作! ——『リンカーネーション・オーバードライブ』!!」
十人の魂が、その存在の根底から一斉に爆発した。
世界を構成していた茜色の空間が、内側から激しく乱打されガラスのように粉々に砕け散っていく。
その消滅の、絶対的な光の刹那。
朱の背後にいた、人形だったはずの雫の口元が、わずかに、本当にわずかに生身の人間らしい愛おしさを帯びて動いた気がした。
「——ありがとう、朱君」
その声を最後に、朱の意識は底知れぬ漆黒の深淵へと突き落とされた。




