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幻影たちに追われるようにして、朱は気づけば見知らぬ街の、しかし酷く記憶に刻まれた「暗闇の路地裏」へと迷い込んでいた。
頭上を覆うコンクリートの隙間から、わずかに差し込む光。湿った空気と、カビと、あるいは微かな鉄の匂い。
ここは、何か大切なものが始まり、そして自分がすべてを懸けて戦うと誓った、因縁の場所のような気がした。
「ついに、ここまで自力で辿り着いたんだね、朱」
空間の連続性が断ち切られたかのように、朱の目の前の空間がぐにゃりと歪み、濃厚な「暗闇の人影」が立ち上がった。
それはこれまで見てきた十人の幻影よりも、圧倒的に密度が高く、朱の魂そのものと共鳴するような異質なプレッシャーを放っている。
朱の記憶の底が、爆発的な刺激を求めて脈動する。暗闇の人影が生まれて初めて、明瞭な「声」を発した。
「すまない、君の友人の姿を借りてしまって。でもこうでもしないと、君の脳が都合よく作り上げている『完璧な拒絶のバイアス』を突破して、声を届けることができなかったんだ」
立ち込めていた黒い霧が、さらさらと消えていく。
そこに現れた姿を見て、朱は息を呑んだ。
そこにいたのは、現在の自分よりもさらに幼い、かつての「自分自身の姿」をした少年だった。
「困惑するのも無理はない。今の君はこの世界を『現実』だと思い込もうと、必死に自分を騙している最中だからね」
「お前は……誰だ? いや僕は、お前を知っている……? 僕の中にいる……」
「そうだよ。君は僕のことをこう呼んでいた。 ——マテリアル、と」
幼き日の姿をした少年は哀しげに、しかし絶対的な信頼を込めて静かに名乗った。
「君の姫巫女としての力の一部。魂の片割れであり、君が世界の物理定数を書き換えるために使ってきた、力の具現化そのものだ」
今の朱の脳内では、その言葉のシステム的な意味を完全には理解できなかった。
しかし言葉よりも早く、魂の最深部が叫んでいた。
この少年は、自分を絶対に裏切らない。どんな絶望の淵にあっても、常に自分の隣で刃を研ぎ続けてくれた、最高の相棒であると。
「マテリアル……。お前が、僕の力……? ならば、なぜそんな姿でここにいる。僕に何を伝えようとしているんだ」
「目を覚まして、朱」
マテリアルは冷酷に、しかし優しくその小さな手を朱の胸へと当てた。
「君も、もう気づいているはずだ。君の周りで笑っているお姉さんも、両親も、そして君の最愛の恋人も、あの変わってしまった雪さんも。この世界にあるすべての温もりは、何の意味もない、未来もない。ただ君を心地よく腐らせるためだけに作られたまがい物のゆりかご——完全なる無の檻なんだということに」
「黙れ……ッ!!」
朱の口から、割れた硝子のような激しい憤怒が、怒号となって飛び出した。
「そんなはずがない! ここには温もりがある! 姉さんが生きていて、毎日僕の名前を呼んでくれる! 明日の希望がある! 何より、雫が僕の隣で、あんなにも嬉そうに笑ってくれているんだ! これが偽りであってたまるか!!」
狭い路地裏に、朱の悲痛な叫びが反響する。
しかし叫びきったその瞬間、朱は自分の口から出た言葉の「不自然さ」に、心臓を物理的に掴まれたかのような衝撃を覚えた。
(——なんだこれは。なぜ僕は、この世界を『僕の理想郷そのもの』だと、知っているんだ……?)
拒絶のバイアスが、音を立てて粉々に爆ぜた。
「完璧すぎる幸福」。それが本当であるはずがない。
なぜなら自分たちの歩んできた現実は血の滲むような、誰かの死の上にしか成り立たない、地獄のような場所だったはずだからだ。
こんなにも綺麗で、都合の良い世界が存在するわけがない。
自分が現実の苦痛と、大切な人を守りきれなかった絶望から逃げ出すために、この檻に自ら進んで閉じこもったのだと、脳が完全に自覚させられた。
朱の額から、大粒の冷や汗が流れ落ちる。
背反する記憶の激痛に頭を抱えて蹲る朱を見つめながら、マテリアルは冷徹に、残酷な「解」を提示した。
「今、現実世界では、君が本当に守るべき人——本物の雫が、君の眠る肉体を守るために、たった一人で血を流しながらあの化け物と戦っている。雪さんも現実へ戻って急行しているけれど、間に合うかどうかもわからない限界の状況だ。だから、捨てるんだ。このままこの偽物の雫と、永遠に終わらない、痛みのない偽りの青春を。そして苦痛に満ちた現実へ戻り、本物の彼女を守れ……!」
「……」
朱の脳裏に、かつて交わした誓いが、鮮烈な光を伴って蘇る。
『世界なんてどうでもいい。すべてを失ったとしても、僕はたった一つだけを守り抜くよ』
天秤は、最初から傾く必要さえなかった。
朱の瞳から、濁った幸福の泥睡が完全に消え去り、現実を射抜くための、鋭く冷徹な覚悟の光が戻ってきた。
「行くよ」
朱は立ち上がり、マテリアルをまっすぐに見据えた。
「僕の、本当に守るべき場所へ」




