3-2
それから、どれほどの「幸福な日々」が過ぎただろうか。
毎日が同じように心地よく、同じような温度で、何一つとして四人の関係を脅かすイベントは起きない。
ある日の放課後、朱は生徒会室の片付けのために、一人で居残っていた。
窓の外は、相変わらずあの美しい茜色の夕暮れだ。まるで、この世界には夜も朝も、次の季節も来ないのではないかと思えるほどに、完璧に固定された美。
「朱くん」
背後からかけられた声に振り向くと、そこには雪が立っていた。
いつもなら机に向かって整然と書類を整理しているはずの彼女が、今は何も持たず、ただじっと窓の外の夕日を見つめていた。
その横顔は、いつもの冷静な彼女のものとは異なり、どこか冷徹で、そしてひどく孤独な色を帯びている。
「雪さん? どうしたんですか、そんなところで。もう片付けは終わりますよ」
「ねえ、朱くん。……いや、朱。この世界、何かがおかしくない?」
雪の声は、低く、そして周囲の空気をピリつかせるような鋭さを持っていた。
「おかしいって、何がですか? 毎日楽しくて、翠姉さんも元気で、雫もいて……これ以上の世界なんてないじゃないですか」
「そうね。これ以上の世界はないわ。……だからこそ、吐き気がするほど不自然なのよ。毎日が同じ温度。誰も怒らないし、誰も本当の涙を流していない。ここにいる翠は、私のミスを優しく笑って許してくれる。……でもね、朱。私の知っている翠様は、もっと厳しくて、もっと不器用で、だからこそ、誰よりも気高かった」
雪は眼鏡を外し、その冷たい瞳をまっすぐに朱へと向けた。
「ここは、私たちの記憶を都合よく切り貼りした、ただのゴミ箱よ。こんなぬるま湯に浸かって、死んだ人を生き返らせた気になって笑っているなんて、彼女に対する最大の侮辱だわ。……私はもう、行くわね。あいつを地獄の底へ引きずり落とすまで、私は絶対に眠らない」
朱の心臓が、ドクンと不快な鼓動を刻んだ。
失いたくない。この幸福を手放したくない。その強烈な自己防衛本能が、朱の口を突いて出た。
「何を言ってるんだ、気のせいだよ、雪さん。疲れてるんだ。僕たちは今、最高に幸せじゃないか。それをわざわざ壊すようなことを言わないでくれ……」
朱の言葉を聞いた雪は、一瞬だけ、悲しそうに目元を歪めた。
しかし次の瞬間には、彼女の瞳からすべての「迷い」が消失し、代わりに底知れぬ、暗く燃え盛るような執念の炎が宿るのを、朱は確かに目撃した。
雪はそのまま生徒会室の扉へと歩いていき、静かに部屋を出て行った。
翌日。学校へ登校した朱は、いつも通りに生徒会室へと向かった。
扉を開けると、そこには昨日と全く変わらない光景があった。
翠が会長席で微笑み、そしてその隣の副会長席には——雪が座って、黙々と書類を整理していた。
「あ、朱くん、おはよう。今日も遅いわよ」
雪は顔を上げ、いつも通りの絵に描いたような優しい笑みを朱に向けた。
昨日、あの放課後に見せた冷徹なまでの鋭さや、燃えるような執念の炎など微塵も感じられない。
「……雪さん、おはよう。昨日のことなんだけど……」
「昨日のこと? 何かしら。私たちはいつも通り、放課後に生徒会の仕事を片付けて一緒に帰っただけじゃない。朱くん、また変な夢でも見てるの?」
雪は小首を傾げ、隣の雫と全く同じ、寸分の狂いもない「完璧な無垢さ」で微笑み返した。
朱はその笑顔を見た瞬間、背筋に冷水が走るような強烈な悪寒を覚えた。
昨日までの雪は確かに冷静沈着でありながらも、内側に人間らしい意志の灯火を宿していた。
しかし、今目の前にいる雪は、まるで外界の刺激に対して最適化された反応を返すだけの、あまりにも滑らかな「何か別のもの」に変質しているように思えた。
毎日が同じ温度。誰も本当の涙を流さず、誰も本当の怒りを持たない。
雪すらも、その世界の「歯車」として完全に同化してしまったかのような、薄気味悪い調和。
完璧すぎる理想郷の日々が内側から静かに、しかし確実に腐食していくような歪みを朱の防衛本能は捉え始めていた。




