3-1
朱が目を覚ましたとき、視界を無慈悲に染めていたのは、ひどく感傷的な茜色の夕暮れだった。
誰もいない放課後の教室。
傾いた西日が使い古された机の木目を、まるで古い映画のフィルムのように哀愁を帯びた赤で焼き付けている。
遠くの運動場からは、どこか現実味を欠いた部活動の掛け声と、泥に塗れたボールが跳ねる音が、湿った空気の膜に遮られたかのような、こもった残響となって届いていた。
「……ん」
ゆっくりと上体を起こした朱は、こめかみの奥を指先で強く押さえた。
ひどく冷たく、悍ましく、そして何かを取り返しのつかない形で失ってしまったような、猛烈な焦燥感が胸の奥底で燻っている。
血の匂い。鉄の味。世界が物理的な質量を以て崩壊していくような、あの圧倒的な暴力の残像が、喉の奥まで出かかっていた。
何か、とても大切なことがあったはずだ。自分がどうしても守らなければならなかった、あの——。
「また居眠りしてたの? 朱くん」
ガラガラ、と小気味よい音を立てて教室の引き戸が開いた。
そこに佇んでいたのは、片手に自習用のノートを抱え、呆れたように、しかし愛おしさを隠しきれない笑みを浮かべた少女だった。
「……雫」
朱の口から、無意識にその名が溢れ出た。
彼女の姿を見た瞬間、胸を支配していた正体不明の暗雲が、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗さっぱりと霧散していく。
「そうだよ、あなたの可愛い恋人の雫ちゃんです。もう、生徒会の手伝いがあるから教室で待っててって言ったのに、本気で寝ちゃうなんて酷いな。そんなに私の隣は退屈?」
雫は小走りで朱の席まで近寄ると、その小さな、しかし確かな温もりを宿した手で、朱の血色の悪い頬を包み込んだ。
柔らかく、みずみずしい、人の肌の感触。
それは朱が心の底から望んでいた、ただの「一人の少女としての雫」の姿だった。
「ごめん。なんだか、すごく悪い夢を見ていた気がして」
「夢? どんな夢?」
「わからない。ただ……君がいなくなってしまうような、そんな夢だ」
雫は一瞬、目を丸くしたが、すぐに慈愛に満ちた笑みを湛えて、朱の額に自分の額をこつんと当てた。
「バカだなぁ。私はここにいるよ? ずっと、朱くんの隣にいるって約束したじゃない。ほら、早く片付けて。お姉さんたちが下で待ってるんだから」
その温もりに触れているうちに、朱の脳内に残っていた最後の違和感の棘が、静かに、しかし強固に奥底へと押し込められていった。
この完璧な安寧こそが自分の世界であり、胸の焦燥感など、単なる「悪い夢」の残滓に過ぎないのだと、自ら脳の認識を塗り替えるように。
校舎の玄関を出ると、そこには見慣れた二人の人影があった。
「遅いわよ、朱。雫さんを待たせるなんて、弟として、いえ、一人の男として少し教育が足りないんじゃないかしら?」
悪戯っぽく、しかし神聖なまでの気高さを纏って腕を組んでいるのは、この学校の生徒会長であり、朱の実姉である翠だった。
美しい黄金の髪を夕風に揺らしながら、彼女は慈愛に満ちた目を朱に向ける。
その姿を見た瞬間、朱の胸の奥が、なぜか理由もない激痛に締め付けられた。
まるで、彼女がこうして目の前で健やかに笑っていること自体が、現実を歪めたあり得ない奇跡であるかのような、奇妙な喪失感が脳裏をよぎる。
だが、その微かなノイズも、彼女の明るい声によってすぐに掻き消された。
「申し訳ありません、翠会長。朱くん、ちょっと寝ぼけていただけですから」
翠の隣で、眼鏡の奥の切れ者らしい瞳を和ませているのは、副会長の雪だった。
いつも通りに冷静で、しかし四人の「日常」を誰よりも大切に愛おしんでいる、穏やかな少女。
「……姉さん。雪さんも」
「なによ、改まって。ほら、早く帰るわよ。今日は朱の好きな唐揚げだって、お母さんが張り切ってたんだから」
翠が朱の背中をポンと叩く。その手の平の強さと温かさは、確かに朱の知っている「姉」のものだった。
四人は他愛のない、学校の授業のこと、次の休みの予定のことを語り合いながら、茜色に染まる坂道を仲良く下っていく。
角を曲がれば、そこには朱の家があった。
扉を開ければ、優しい両親が「おかえり」と温かい夕食の匂いと共に迎えてくれる。
そこには義務も、戦いも、血の呪いも、大切な人の死もない。
学校の教室で感じたあの狂気的な焦燥感など、単なる「質の悪い悪夢」だったのだ。
朱は、自身の脳内で警報を鳴らし続ける細かな違和感に自ら強固な蓋をして、この幸福に溺れていく。
彼の心を苛んでいたはずの全ての棘は、いつしか完全に消え去っていた。




