2-6
虎の気配が完全に消失した。
戦場には茫漠とした虚脱感が漂っている。硝煙と死の匂いだけが、重く沈んでいた。
朱は地面に力なく膝をついた。息がうまく吸えない。人類最強の男の死という事実が、鉛のように心にのしかかっていた。
しかし、勝利の余韻など一秒たりとも与えられなかった。
ズズズ……と、不気味な地鳴りが足元から響く。
討ち取られた虎の巨躯から、行き場を失った膨大な力が噴出し、大地へと流れ込んでいく。それが地下の地脈を狂わせ、世界そのものを叩き潰すような大激震となって牙を剥き始めたのだ。
「……そんな、虎を倒したのに。今度は、大地が……割れていく……」
雫の声が、深い絶望に沈む。ボロボロの身体で必死にシールドを展開しようとするが、指先からの光は霧のように霧散してしまった。
「長かった。いや、実に長かった」
紫煙を纏い、引き裂かれた空から悠然と舞い降りた影があった。
東の魔神・龍。
狡猾なるその魔神は、最初からこの瞬間を狙っていた。
虎が死に際に残す「世界を滅ぼすほどのエネルギー」を奪い取り、自らの目的のために利用できる、たった一度の好機を。
龍は地を這う虎の残骸から溢れる力を、自らの尾で強引に引き剥がし、自らの背へと吸い上げていく。
暴走する虎の残滓をコントロール下に置いた龍は、冷酷な笑みを浮かべた。その鋭い眼光が、完全に消耗しきった姫巫女・翠、そして朱へと向けられる。
「このままでは大地が滅びよう。……けれど、我がこの虎の残滓を以て契約をなせば、世界に安寧を授けてやってもよい。汝、紅瀬朱といったか。君に選択の権利を与えよう」
「契約……だと……?」
朱の思考が停止した。龍の言葉の意味が、脳に届かない。
「我が求める対価は、贄の魂だ。この大地を救う代わりに……姫巫女の命か、あるいはそこの女の命か。どちらかを差し出せ」
「な、何を言っているんだ。姉さんか、雫から選べだと……。なんで、そんなこと……!」
朱の声が裏返る。灼熱の溶岩に突き落とされたかのように、精神が激しく掻き乱された。
だが、龍が朱を指名したのには、明確な理由があった。
龍の狙いは、最初から「結界の要」である姫巫女・翠の抹殺だ。
しかし、世界を書き換えるほどの契約を成立させるには、対象と深く因果の繋がった者の『明確な意志による選択』が必要となる。 そして龍は、人間の歪んだ心理をすべて見抜いていた。
「理解していないようだな。我は、君の魂の底を知っている。紅瀬朱……君は、そこの女を死なせることは決してできない。己の恋情のために、世界を天秤に傾けてでも彼女を救う男だ。だからこそ、君に選ばせるのだよ。君の手で、姉であり、人類の希望たる姫巫女の命を切り捨てさせるためにな!」
「、ダメ……! 契約しちゃダメ!」
雫が叫んだ。彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私を選んじゃダメ……! 私は、あなたにそんな十字架を背負わせるために、ここまで一緒に来たんじゃない! 私なんかを庇って、あなたのお姉さんを殺すなんて絶対に、ダメ……!」
「ダメよ、朱!」
雪が、血の出るほど唇を噛み締めながら叫び声を重ねた。
「姫巫女を失えば、この国の結界のすべてが崩壊する! 世界そのものが失われるのよ! 龍はあなたの弱みに付け込んで、あなたの手で人類の未来を終わらせようとしているの! 」
二人の必死の叫びが響く中、翠だけはただ静かだった。
慈愛に満ちた、そして悲しげな目で朱を見つめている。
翠には分かっていた。朱は優しい。優しすぎるからこそ、目の前で泣き崩れる雫を、犠牲にすることなど絶対にできないのだと。
このままでは、朱は龍の言葉通り「雫を救うために姉を捨てる」という最悪の契約を選択させられ、一生消えない大罪の呪縛を背負うことになる。
(……そんなこと、絶対にさせない。私の大切な弟に、姉を殺したなんて、そんな顔をさせて生きさせるわけにはいかない……!)
一人の姉としての、狂気にも似た覚悟が翠の胸を突き動かした。
「……朱。いいのよ、もう悩まなくていい」
翠は、朱の震える手を優しく包み込んだ。血に汚れた、最愛の弟の手だ。
「本当はね、もっとあなたと一緒に生きたかった。……でも、あなたが雫さんを助けたいと思うその気持ちを、私は絶対に否定しない。あなたが選んだ大切な居場所を、こんな化け物の思い通りにさせてたまるもんですか……!」
翠は優しく微笑むと、朱の手をそっと離した。 朱が絶望の選択をさせられる前に、その因果を断ち切るために。
契約の主導権を龍から強引に奪い取るために、翠は龍へと向き直った。
「五大魔神・龍! ……あなたの思い通りにはさせない! 私は朱にあなたとの契約なんてさせない。私はただ、選択の道具として殺されるためにここにいるんじゃないわ。隊長が見せてくれた人間の意地を、今度は私が繋ぐ!」
翠の全身が、黄金の輝きに包まれる。太陽のような、圧倒的な光だ。
隊長は知らなかった。通常、姫巫女が扱う『リンカーネーション』とは、己の魂の一部を力へと変換する術であることを。
もしそれを、人間の身でありながら命のすべてを賭して模倣すれば、魂そのものが世界から抹消される。
だが本物の、純血の姫巫女である翠が、己の魂の『すべて』を燃料としたならば――その術の呼び名は、真の姿へと変貌を遂げる。
次元の違う、究極にして絶対の出力。
ただ無力に殺されるのではない。自分を追い詰めた狡猾な魔神に、決して消えない爪痕を刻みつけるため、翠は命の残り火のすべてを爆発させた。
「リンカーネーション……オーバードライブッ!!」
朱の声にならない、魂が裂けるような絶叫が響く。
朱は手を伸ばした。 だが、その指先が翠の衣に触れるより早く、翠は黄金の光の弾丸と化して龍の眉間へと特攻した。
眩い閃光が弾けた。視界が真っ白に焼き切れるほどの光だ。
「ぐぬっ……!? おのれ、自らの魂を燃やして我が理を侵すか、姫巫女ォッ!!」
龍の神のごとき貌に、修復不可能な、消えない裂傷が深く刻まれる。 狡猾な神が初めて苦悶に呻き、その後方へと大きく退いた。
同時に、翠が自らの命のすべてを注ぎ込んで虎の残滓を相殺したことで、大地を揺るがしていた暴走の震動は少しずつ、確実に弱まっていった。
大落盤は防がれ、世界の崩壊は止まったのだ。
光が収束していく。静寂が戻った戦場で、朱は虚空を掴んだまま、狂ったように地面を這った。
「姉さん……姉さんッ!! ああああああッ!!」
朱の腕の中に残されたのは、小さな破片だけだった。
かつて姉が大切に身につけていた装飾品の、温かな名残。それだけが、ぽつんと地面に転がっていた。
守りたかった、姉と慕った命。それを代償にして、大地は救われた。
そして朱に選択をさせることなく、翠の自死という形で雫は生き残った。
「……ごめんなさい、私のせいで、私のせいで……!」
雫は声を上げて泣きじゃくる。雪もまた、膝をついたまま、声にならない涙を流して拳を地面に叩きつけていた。
朱は、応えなかった。
ゆっくりと立ち上がる朱の瞳から、光が完全に消え去っていた。底知れぬ、冷徹な殺意。
龍さえも一瞬たじろぐほどの、昏い深淵のような炎がその目に宿っていた。
その様子を、顔に深い傷を負った龍が見つめていた。頬を流れる自らの黄金の血を指で拭い、それを愉悦に満ちた目で舐めとる。
手痛い一撃を喰らいはしたものの、当初の目的通り、目障りな姫巫女を排除することには成功したのだ。
「姫巫女は死んだ。死んだぞ! もはや我を止める結界の主はこの世界にいない。望みが叶ったな、紅瀬朱! 君が彼女をその選択肢に追い込み、殺したのだ! ……ふははっ、ふははははっ!」
龍の嘲笑が、灰色の空へと虚しく響き渡っていた。




