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【1】村娘の出会い

「ふぅん、お前が怪物か」


はつり、と檳榔子黒の瞳が瞬いた。

たったこれだけで、そ(・)れ(・)の世界は塗り潰された。



王国の端に、怪物の森と呼ばれる場所がある。読んで字の如く、怪物が棲むと言われる森である。噂に聞くそれは、複数の眼、針金のような体毛、四つの耳、四本の腕。耳の横まで裂けた口は赤く、何重もの乱杭歯が剥き出しになっている。

怪物を見たものは呪われる。怪物と出会ったものは殺される。死の森に入って、帰ってきた者はいない。

地元民さえも恐れ近寄らないその森に、たった1人で足を踏み入れた人間がいた。


怪物は当初、それが人間だとは知らなかった。

二本の腕に、二本の足。五本に分かれた繊細な指に、ハッとするほど細い胴、今にも折れそうな頸に乗る頭は、あまりにも完璧な造形品であった。あまりにも美しい、高貴なる黒を身に纏う人間だった……。嗚呼、そうだ。何もかもが初めての姿だった。怪物が知らないそれだった。

怪物に言葉はなく、感情はない。それを生かす因縁も、殺さない理由も一つもない。


ただ、その小さな顔に嵌まる。

檳榔子黒の双玉が、あまりにも。


「なんとも哀れなことだ」


詰まらなそうに鼻で笑って、人間が言った。誰もが恐れる怪物を目の前にしているというのに、その眼差しはぞっとするほど凪いでいる。優美な白い手がダンスでも誘うかのように伸ばされてーーー怪物に、触れる。


「なぁ、畜生腹を知っているか?」


赤子の誕生は、これ以上無く祝福されることだ。誰もが祝い、誰もが踊り、誰もが歓喜する。親がいない子供だって、望まれない子供だって、誰もが祝福されるべきひとである。歓迎されるべきひとである。それがこの王国の絶対のルール。


---ただし、絶対には例外がある。


一つの腹から、複数の子が生まれる時。

一つの腹で、複数の生命が育まれた時。

その赤子たちは畜生腹と呼ばれ、存在するだけでもこの世から憎まれる。妊婦の腹を引き裂いて引き摺り出してでも殺される。息をする前からどうしようもなく嫌われる。

腹の中にいる時に殺されることが大半で。それをすり抜けても、産声を上げた瞬間から甚振られ、痛めつけられ、どうしようもなく世界から弾かれる。

彼等は、産まれる前から地獄にいる。

嗚呼、そうだ。畜生腹だけは、どう足掻いても許されない。


「畜生腹が報われることも許されることもない。許されないのなら、奪ってもいいだろう」


そう言い放った人間は。まるで花開くように。まるで深い闇に月がその輝きを増すように。

怪物の顔を撫でた指先は優しいままに、牙を剥いて、目を光らせて、低く、低くーーー笑う。


「お前はどうだ?」


傲岸で傲慢。怪物がひとであれば、思わず腰が砕けるような美しさだった。

怪物に言葉はなく、感情はない。それを生かす因縁も、殺さない理由も一つもない。

けれど。

その闇の中で光る檳榔子黒が、あまりにも眩しくて。狂おしいほどに美しくて。どうしようもなく魅力的で。信じられないほどにーーー塗り潰されたから。

怪物の足から力が抜ける。誰にも恐れられる死の森で、無様に怪物が這い蹲る。その眼差しひとつで屈した怪物の、近くなった耳に顔を寄せて。形のいい唇に笑みを刷いて、人間は囁いた。



「出逢ってしまったのだから、諦めろ」



怪物は、こうして人間の手を受け入れた。

花散るように美しい檳榔子黒の眼の奥に、己と同種の異形を見た。

その薄い掌を、小貝のような爪先を、甘やかなのに一つも優しくなんてない夜明けの声を拒むことなんて出来なかった。

「嗚呼、そうだ。私には、三つの矜持がある」


ひとつ、華麗で優美たれ

ふたつ、聡慧で強者たれ

みっつ、高雅で深愛たれ


「お前が、私の愛に背かぬ限り。優美たる振る舞いで、強者たる寛容で、深愛たる慈悲で、とびきり素敵に愛でてやるさ」


触れられるがまま従順な怪物を見下ろす檳榔子黒が、その凄絶な青みを増す。

うっそりと微笑むお前は、悪逆が故に、どこまでも美しい。



その日、死の森から人知れず怪物が消えた。

誰にも気づかれないまま、怪物が外の世界を知る。

残されたのは、朽ちた伽藍の廟がひとつ。




これは、悪逆貴族が貫いた三つの矜持の話である。




***



「わあっ!ここが王立学園なのねっ」


鐘が鳴ると同時に、わらわらと人が溢れ出す。抜けるような青空が憎らしいほどに晴れ渡っている。

天高く伸びる白亜の建物を見上げて、天真爛漫に笑う少女がいた。


「私がこんなに凄いところに来れるなんて!信じられないっ」


花嵐の中をくるくると回る女の子。突き抜けた美貌は無く、くしゃくしゃにして笑う顔はいっそ幼い。それでも、はっと目を引くような瑞々しさを持つ少女であった。


「レティシアったら大袈裟よ、貴女は特等生の中でも1番なんだから」

「でも、私は平民なんだもの!」


明るく跳ねる声に苦笑する友は、学園の入学式で仲良くなった王都の娘である。柔らかな亜麻色の髪を靡かせるレティシアは、田舎育ちの平民であり、その実力で王立学園に主席で入学した才媛であった。


「でもすごいわね……右を見ても左を見ても貴族ばっかり!」

「あらレティシア、貴族の方々に失礼よ」

「分かってるわよ!でも、やっぱりこんなに貴族がいると空気も違う気がするわ」

「そうね。高位貴族の方もいるほどだもの。やっぱり世界が違うわね」


友は、ほぅっと息を吐きながら頰に手をやった。レティシアは友の視線を追うように、ぐるりとあたりを見回した。やっぱり、王都は違うのかしら。服の着こなしも身のこなしも、今まで見てきたものとは違う気がする。ころころと笑い合う姿でさえ品がある。己が思っていた以上に無不相応に思えて、上着の裾を手持ち無沙汰に引っ張った。

そんなレティシアを見て、おっとりと友が微笑む。


「貴女、とっても優秀だもの。貴族の方に見初められるなんてこともあるんじゃない?」

「まさか!お貴族さまのお相手になるなんて分不相応よ」


からりと笑ってレティシアは言った。いつだって、レティシアの心にいるのは、郷里に残してきた母の姿である。


(隣のおばさんに頼んできたけど、お母さんは元気かしら。1人になっちゃったから……)


猟師だったレティシアの父は幼い頃に死んでしまった。恵まれているとは言えない田舎の暮らしで、女手一つで育ててくれた母に、楽をさせてあげたいと思うのは自然の摂理だった。楽をさせてあげるには金が要る。金を稼ぐには学がいる。学ぶためには、最低限の知識がいる。

だから。郷里を治める大貴族様が、なんの戯れか平民に教育をと広く基礎教育を施したお陰で、レティシアは王立学園に入学出来たのである。


「そういえば、」

と、友人が小さく囁く。あまりにも小さいものだから、レティシアは耳を寄せる。


「……この学園に、畜生腹がいるらしいわ」


畜生腹?とレティシアは眉を顰めた。正義感ゆえでは無い。その言葉の忌まわしさ故だ。 



畜生腹。

その言葉こそ、なんと悍ましい。



王国において。畜生腹とは何よりも唾棄すべき存在である。一つの腹につき一つの命。そんな自然の摂理に逆らう悪しき存在。生まれるはずのなかった命。祝福されるべき子供達の中の、唯一の例外。


どれだけ身分差があっても、どれだけ貧富の差があったとしても。これだけは、王国で共通する唯一の価値観。王様から貧民まで、全てが適用される絶対的ルールだ。


畜生腹は、生まれる瞬間に殺されるのが普通である。どんなに高貴な身でさえ、畜生腹がこの世に生き残っていることなど、禁忌に近い。


「それは、どんな……?」


囁き返したレティシアは、友の顔に驚愕が張り付いていることに気づきーーー次いで、周囲が水を打ったかのように静まり返っていることに気付いたのである。

それは、自然な挙動である。レティシアの視線が友のそれを追い、振り向いて。



玲瓏にして高雅。

それでいて、夜に浮かび上がる白樺のような。

薄寒いほど恐ろしい、美貌の青年がそこにいた。



「……、」


レティシアは息を止める。心臓が刹那、断末魔みたいに引き絞られる。

それくらいの衝撃。


視線の先で。青年は、ただひとり歩いているだけだ。

白手袋で覆われた指先が杖頭を握り、踵が石畳を打ち鳴らす音さえも洗練されている。

誰もが自ずと視線を向け……決して目を逸せない圧巻の存在感。脳に焼きついて離れない絶対の気品。

彼と話しているわけでは無い。目があっているわけでも無い。ただ、その人が視界にいるだけで、一気に世界の彩度が上がる。そんな、隔絶した美しさ。


どんなに綺麗に整えられた庭園も、どんなに澄み渡った空も、花も、宝石も、たくさんの生徒たちも、全てが有象無象に成り下がる。そこにいるだけで、全ての色彩を引き立て役にして君臨する唯一無二の檳榔子黒がある。


隣で、友人が息を吹き返したかのように微かな息を吐いた。


「なんてーーーきれいなひとなの」


嗚呼、そうだ。

細やかな光を弾く黒絹のような髪。透き通るような薄氷の肌が、彼が持つ黒と相互に引き立てあって、黄金比を描く優美な貌を飾り立てている。

滑らかな無表情だ。それ故に際立つその美貌。その中で、気怠げに伏せられた長い睫毛の奥。



全身の毛穴が開き総毛だつほどの凄絶な美しさ。

今までのありとあらゆる価値観が、一瞬で塗り潰されるほどの美しさだった。



歩き去っていく青年の背中を見つめながら。レティシアは、ほうっと息を吐いた。その吐息は微かな熱を孕んでいる。彼女の視線は、無意識に青年を追いかけたまま……。

出逢いにもなっていない未熟な邂逅が、少女の無垢な心に焼きついた。この時、強烈に思い知らされた彼の印象は、最後まで尾を引くこととなる。


彼女は青年を見ている。

彼を見つめる周囲の、陶酔と嫌悪と情愛と憎悪と執着と信仰の入り混じった目に気づくことはないままに。彼女の世界は、自覚のないまま、美しき畜生腹に塗り潰された。

「あの人、どんな方なのかしら……」

彼女は、歴史に名を残す英雄の道へ、こうして足を踏み出すこととなる。



ーーーレティシア。



後の世に、平民初の王妃となり、荒れた王国を建て直すため伴侶と共に生涯かけて奔走し、畜生腹の悪習を打ち砕く大改革の端緒になったと言われる女傑である。


「………すごいわ、おうとって」



今は、キツく胸元を握り締め、紅潮した頬をそのままに青年を見つめる。ただの、平民の少女であった。




***




「レティシア!」

「なぁに?」

「明日までのレポートやった?」

「まだよ!とても難しくって、」

「そうよねぇ。さすがは王立学園。正直想像以上だわ」

友人の言葉に苦笑する。友の言葉ではないが、王立学園のレベルは当然ながらに高い。王族も通うほどなのだからよっぽどだ。


「魔石の活用方法のレポートねぇ」


憂鬱そうに溜息を吐いた友人は、これから実家の手伝いに帰るらしい。また休日中に顔を出してみようかしら、と思いながら寮に帰るべくレティシアは身を翻した。


さて。入学式での衝撃を余所に、レティシアの学園生活は順調に滑り出していた。入学して一ヶ月ともなれば、田舎者でさえ慣れるものである。


……嗚呼、いや、違う。


「あっ、すみませ……」


歩きながらぶつかりかける。少女の淡い唇から零れた謝罪の言葉は宙に消えた。

レティシアを見下ろすのは無感動な瞳であった。色のない瞳であった。

冷淡でも、冷酷でもない。

ただの無彩色。


「………、」


レティシアは、ゆっくりと膝を折る。

低く下げられた旋毛に目を向ける人はいない。


……この学園において、レティシアは人ではないのだ。

言葉遣い、声のトーン、身振り、歩き方、教養。笑い方ひとつを取っても、彼らとレティシアには隔絶した差があった。学園の大多数を占める貴族たちにとって、レティシアは未知の生物であった。

人語も解せぬ山猿に、話しかける人間が何処にいる。


レティシアに目を向けることもないまま、言葉を掛けることもないまま、すり抜けて行った貴族の少女たち。何処かひゅるひゅると心臓の裏が枯風のような音を立てる。去っていく背中を追うレティシアの眼差しは滑らかな白磁のようだ。


ふと、その睫毛が震える。


白亜の回廊の先から、レティシアを見つけた青年は、楽しそうに破願した。


「やあ、こんなところで会うなんて驚いたよ、レティシア」

「恐れ入ります、殿下」


わざわざレティシアの方へ歩いてきてくれた彼は、深く頭を下げた彼女に「大袈裟だよ」と笑う。

端正な顔の中にはめ込まれたピーコックグリーンの瞳が光を帯びて煌めいた。

彼は、レティシアと同じ特級クラスに所属する生徒である。高貴な身の上であるというのに、平民であるレティシアにも分け隔てなく接してくれる凄い人だ。彼に取っても、レティシアは小汚い山猿の筈なのに。……同じ年であるというのに、あまりにも人ができている。


「これから、入学してから初めての長期休暇だな。レティシアはどこかに行くのか?」

「…………」

「殿下、レティシア嬢は辺境より来られております。この休暇は王都にいらっしゃるのではないでしょうか」

「ああ!それはいい。王都は広いからな。一週間などあっという間に過ぎるだろう」

「…………」


レティシアは深く下げた頭を動かさない。口を開かない。挨拶以上のそれを許されていないからだ。深く深く首を垂れ恭順の意志を示す少女を色の無い目で見下ろして。従者は物好きな主人の後ろからそっと囁いた。


「殿下、お時間でございます」

「嗚呼、ありがとう。お忙しい兄上に誘っていただいたのだから、何としてでも帰らねば」


明るい眼差しで青年は微笑んだ。その瞳は、兄への憧憬と慕情でキラキラと輝いている。

公明正大な王太子を支える明るい第二王子。

敬愛する王太子を支えるために文武両道の道を選んだ、「俺のせいで兄上の評判を落とすわけにはいかないんだ」と笑う青年。側妃腹ではあれど、王室兄弟の仲の良さは辺境の村まで届くほどだった。


「レティシア、お前も良き休暇を過ごすことだ」


去っていく第二王子は最初から最後まで素敵であった。学園で、殿下を密かにお慕いし応援する生徒たちが沢山いるのも納得だった。だって、山猿に話しかけるなど、他の貴族ではあり得ない。あの王子様に憧れの視線を向ける友の姿を、思い返して。


ーーーその脳裏に、花開くような極上の檳榔子黒が蘇る。


レティシアは、未だにあの青年が己の中に居座っていることを知っていた。

レティシアの脳を占めるのはピーコックグリーンではない。たった一瞬垣間見ただけなのに、気づけば無意識に白樺の君を探して彷徨う目線を、自覚せずにはいられなかった。


(嗚呼、でも)


きっと、あの時の邂逅は夢のようなものだったのだ。彼の美しき青年は、一ヶ月経ってなお夢幻のように影も形も見えず。ベッドに入る度に、喋ったこともないあの人の横顔を思い出すのは、きっと私の未練だった。


「……図書館にでも行こうかな」


一人になってしまったら、またあの人のことばかり考えてしまう。

清水のように靡く黒髪に、雪解けのような透明な氷肌。黄金比の造形の中で、一際美しい、檳榔子黒のーーー。


人のいるところに行きたかった。でも、誰とも話したくはなかった。

だから、レティシアは図書館の扉に触れ。



偶然だった。

故に、運命だった。



「ーーーその本を手に取る人間は珍しいな」



レティシアは、貴方に出会った。出会ってしまった。

誰も行かないような書庫の奥。

臙脂色のソファに腰掛けて、至上の黒がそこにいた。


「新入生か」

「ぁ……」


舌が張り付いたように動かない。頭の中は真っ白で、ただその幼なげな眼が大きく見開いて。


記憶の中の朧げな黒が、眼前の絢爛たる檳榔子黒に、鮮やかなまでに塗り潰される。

鼻を擽る苦く甘い匂いが脳髄をどろどろに溶かしてゆく。

気品あるベルベットのような声は、密やかな艶を帯びながら耳朶に触れ。凍蝶の翅のような睫毛が緩やかに空気を掻き混ぜるだけで、心臓が雷に撃たれたように痛むのだ。


レティシアは答えられない。動けない。


檳榔子黒の視線が詰まらなそうに流され、そのタイトルに向く。少女が本を持つ手は紙よりも白く震えていた。


「それで、お前は何故ここに?」


びくりと華奢な肩が跳ね上がる。

脳髄が凍りついたかのように動けない。でも、この美しき人の前で、答えないと言う不敬は許されない。哀れなほど青褪めた唇が震え、気づけば飾らないままの言葉が転げ落ちていた。


「れ、レポートに」

「嗚呼、一年の総合魔術学か」


彼の方が、私の言葉を聞いている!私は彼と喋っている!こんな汚い山猿の言葉が、彼の耳に触れてしまった!!!


レティシアは、蒼白な眼差しを床に落とした。もう涙も出なかった。この人生で、一番の罪を犯したような気持ちだったから。


目の前の青年は、あまりにも美しかった。

あまりにも美しい黒を当然の顔で身に纏う青年であった。この世に二つとない黒に飾り立てられながらも、それを引き立て役にするほどの傾国の貴公子であった。


レティシアは、真っ白な顔のまま、唇を震わせた。

自ずから膝をつき首を垂れその滑らかな声をずっと聞いていたかった。視線を合わせるなんてもっての外。彼の視界に入ることさえ罪深い。


田舎の平民の少女。ただの世間知らずの女の子にそう思わせるほどの、圧巻の美貌である。


息も儘ならないレティシアの旋毛を見つめて。青年は、はた、とひとつ瞬いた。

白樺の枝のような指先が、本棚に納められた背表紙に触れる。


「……お前にはこれがいいだろう」


床ばかりの視界に、濃紺の本が入り込んでくる。反射的に受け取って、本から伸びた指を、腕を、そして顔を順番に辿り。


「励めよ、新入生」


優しい声だった。甘さなどひと匙も無いくせに、涙が出るくらい穏やかな声だった。その薄く形の良い唇は、僅かも緩んでなどいないくせに。花散るように美しい檳榔子黒が、ただ真っ直ぐにレティシアを見ている。


(…………あ、)


この心臓が、最後の音を立てて止まる。

田舎から出てきた山猿が、王都で初めて出会った慈悲だった。人の言葉も解せぬ山猿に生まれて初めて与えられた、神からの救済であった。

平民であることも、足りぬ全てを関係ないと飛び越えて。同じ空間にいることも忌まれる山猿に、初めて真正面から話しかけたひとがいた。ただのレティシアを見つけたひとが、ここに。


「あ、あのっ!」


それは、衝動であった。理性を追い越す本能。一層強く胸を打った心臓から突き動かされるような、そんな衝撃。


「わ、わたしは。レティシア。ネーロ村のレティシアと言います!」


声は震えていた。涙さえ滲んでいた。

けれど、そこに躊躇はなく。切とした響きだけがあった。彼女は、青年だけを見つめて。


「貴方のお名前を、教えてくださいっ!」



ーーーレティシアは、形振り構わず一歩踏み出した。



ひとつ、檳榔子黒が瞬く。

青年は、優雅な仕草で振り向いて。陶器のような無表情のまま、黄金比の横顔のまま、音もなく視線を流した。


「ブランノワール」

「えっ、」

「ウィリアム・ブランノワールだ」


耳に心地よい声は、天鵞絨のように滑らかで。名前ひとつ言うだけで、気品ある艶やかさを溶かし込んでいる。

射干玉の髪が光を弾き、薄氷よりも透き通った肌が引き立てる艶やかな檳榔子黒が一層美しい。

そこに立つだけで、世界の明度が上がる白樺の貴公子がここにいた。


だから、レティシアは。一拍置いて気がついた。当たり前の顔で。平然とした顔で与えられたそれの意味が脳に染み込んで。


「あっ!!!」


気づけば、青年の姿は夢のように消えていた。

残るのは、レティシアと紺色の本、彼の苦くも甘い香りだけ。へなへなと床に座り込んだレティシアは、「嘘じゃないよね?」と呟いた。呆然とした顔で見下ろした表紙には、


『魔石の採取方法と利用の考察』


というタイトルが。それを見下ろしながら黙り込んだレティシアの頭の中は、白樺の君の名前ばかりだ。

「ウィリアム様……」

仄かに頬を染めて呟いた彼女は、ややあって、あっと間抜けな声をあげた。

家名がブランノワール……ブランノワール?


「うちの領主様じゃない!」

目を丸くした彼女は知らない。


ブランノワール侯爵家。

国有数の大貴族であり。……20年弱前、とある大罪を犯したことによって、大きくその名を落とした家である。王家にも睨まれるかの家を、人は悪逆侯爵家と呼ぶ。


青年は、悪名高いブランノワール家の長男にして後継ぎ。

ウィリアム・ブランノワールであることを。


彼女は知らずに、いとけない少女のように胸を高鳴らせていたのである。



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