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「…どうやって読むんだ」
図書館に着いたノエルは地図を前にして、頭を抱えて唸った。そういえば地図の見方を全く知らないことに今更気づいた。
(ここが俺のいる学園都市で…え、なんだこの緑のところは…)
彼は文字が読めないわけではなかったが、今まで育った環境では地図を読む必要がなかったため、記号や縮尺の概念がさっぱり理解できなかった。実は授業についていけないのも、こうした基礎的な知識の欠如が原因だった。
ノエルはしばらく地図とにらめっこして、うーんと眉間に皺を寄せる。けれどもどの線がどこを指し、どの記号が何を意味するのか、まるで暗号を解読するかのように困難だった。
(…だめだ、全然読めない。辞書を持ってきても時間が…)
図書館の閉館時間を気にして焦る。辞書を持参しても読める自信はないし、地図の持ち出しは厳禁。八方塞がりだった。
(…仕方ない。また後日来よう)
諦めて肩を落とし、深いため息をつく。せっかく広げた地図を折りたたみながら、またメイに会えない日が続くのかと思うと胸が痛んだ。帰る準備をしたその時——背後からひそやかな気配を感じて、咄嗟に振り返った。
「わっ…びっくりした」
「! 君は…」
青い瞳を大きく見開いて固まったのは、他でもないレイシーだった。まさかノエルが振り返るとは思わず、彼女も同じように驚いている。ノエルも緋色の瞳を見開いて、一瞬時が止まったように固まった。
「…レイシー? なんでここに?」
思わずそう問いかけると、彼女は困ったような苦笑を浮かべる。
「ここでよく勉強するの。まさかノエルくんに会えるなんて思わなかったけど」
「……?」
彼女の言葉に違和感を覚える。
成績優秀な彼女が図書館を利用することがあるのだろうか…?
けど、自分も図書館を頻繁に利用するわけではないので口をつぐむ。
そんな彼をよそに彼女が花がほころぶように微笑むと、彼が片付けようとしていた地図に視線を向けて、不思議そうに小首を傾げた。
「…地図を見てたの?」
レイシーの言葉にノエルははっと我に帰り、慌てて地図を背中に隠す。気まずそうに視線を泳がせながら、何か適当な言い訳を考えようとするが——
「その…これは…」
全く思い浮かばない。彼女はしばらく彼の言葉を辛抱強く待っていたが、やがて恐る恐る声をかけた。
「…もしかして、地図の読み方がわからない?」
「………っ!」
まるで心の内を見透かされたように、ノエルは衝撃を受けて目を見開いた。なぜわかったんだ…!?そんな驚愕の表情を見て、レイシーは可愛らしくクスクス笑う。
「ふふ、見ればわかるわよ。さっきから地図とずっと睨めっこしてたもの」
その屈託のない笑い声が図書館の静寂に響く。ノエルは唖然として彼女を見下ろしながら、なんだか気恥ずかしくなって赤らんだ頬を掻いた。彼女の笑顔を見ると、胸の奥に妙な暖かさが広がるのを感じる。
笑い声が落ち着くと、レイシーは慈愛に満ちた笑みを向けて優しく目を細めた。
「…ノエルくんがよければ、地図の見方を教えましょうか?」
「………え?」
ノエルは予想外の申し出に驚いて、緋色の瞳をぱちぱちと瞬かせる。しかし次の瞬間、困惑したように慌てて口を開いた。
「い、いや。でも…」
断ろうとした。彼女と深く関わることを恐れていたからだ。過去のあの痛みを思い出すと、どうしても一歩引いてしまう。
だが、地図の見方もわからないまま、後日また来ても結局理解できないだろう。頼れる人もいない彼にとって、彼女の申し出は砂漠のオアシスのようにありがたかった。メイを探すためには、どうしても地図が読めるようになる必要がある。
…けれど、関わってしまえば彼女が周りから白い目で見られるかもしれない。また自分のせいで誰かが傷つくかもしれない。
心の中で激しい葛藤が渦巻いた。理性は関わるなと告げるが、感情は彼女の優しさに縋りたがっている。長い沈黙の末、ノエルは歯切れ悪く口を開いた。
「……お願い、してもいいだろうか?」
本当は彼女のために関わってはいけないとわかっていた。だが、その提案はあまりに魅力的で、断る意志力が彼には残っていなかった。
そんな彼の複雑な心境を察してか察さずか、レイシーは嬉しそうにクスクス笑う。
「もちろんよ。じゃあ、早速一緒に見ましょう」
閉館時間が迫っていることを気にして、彼に座るよう促した。ノエルは少し躊躇しながらも素直に従おうとしたが、レイシーが突然あっと小さく声を上げた。
「あ、ごめんなさい。ノエルくん…そこの席、変わってもらえる?」
「? なんでだ?」
不思議そうに問うと、彼女は恥じらうように目を伏せて、頬をほんのり桜色に染めた。
「…実は、私いつもその席で勉強してるの。だからそこじゃないと、なんだか落ち着かなくて」
ノエルは少し不思議そうな顔をしたものの、特に深く考えずに納得して頷く。立ち上がって彼女と席を交換した。確かにこの席は窓に近く、勉強には良い環境だった。
「ありがとう」
レイシーは心から嬉しそうに笑みをこぼして、満足そうにその席に腰を下ろす。ノエルはこんなふうに誰かに感謝されることなど滅多になかったため、妙な気分になって視線を泳がせた。
「それじゃあ、早速始めましょうか」
二人は机の上に地図を広げ、レイシーが丁寧に説明を始めた。彼女の説明はわかりやすく、まるで彼がつまずきそうなポイントを事前に把握しているかのように的確だった。
「ここが学園都市よ。そしてこの青い線が川で、緑の部分が森林地帯…」
「なるほど…それで、この茶色い部分は?」
「山岳地帯ね。標高が高くなるほど濃い色で表示されてるの」
ノエルは素直に耳を傾け、一つ一つを丁寧に理解していく。不思議なことに、彼女の声は他のどの先生よりも聞き取りやすく、頭にすんなりと入ってきた。
「レイシーは、なんで地図に詳しいんだ?」
「商業都市の出身だから、交易路とか地理は必須科目だったの。それに…」
彼女は少し言葉を濁したが、すぐに明るい笑顔を浮かべて話題を変えた。
「ノエルくんは、何か特定の場所を探してるの?」
その質問に、ノエルの手が一瞬止まった。メイのことを話すべきか迷ったが、結局曖昧に答える。
「…ああ。昔知ってた人がいそうな場所を探してるんだ」
「そうなの。大切な人?」
レイシーの何気ない質問に、ノエルは胸の奥が痛んだ。
「…ああ。とても大切な人だった」
「だった…?」
「今はもう、俺のことを嫌ってるから」
その言葉に、レイシーの青い瞳が一瞬だけ複雑な光を宿したが、ノエルは地図に集中していて気づかなかった。
なんで彼女は俺にこんなに親切にしてくれるんだろう?
そんな疑問が心の隅に浮かぶ。でも、聞く勇気はない。
窓の外では夕日が傾き始めていた。沈黙が二人の間に流れる中、レイシーは地図から視線を上げることなく、どこか遠くを見つめるような口調で問いかけた。




