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29

空が、ない。


 見上げても天井しかない。灰色の石壁に囲まれた牢の中で、スコットは膝を抱えて震えていた。


 ドージャー家が管理する空中監獄——永遠に冬が続く都市『フロストファージ』の、さらに上空に浮かぶこの場所は、地上よりはるかに凍てついていた。息を吸うたびに肺が痛む。空気が薄い。酸素が足りない。


 厚手のコートも手袋も与えられず、スコットは囚人服一枚で冷たい床にうずくまっていた。身体中から熱が奪われていく。指先の感覚がもうない。


「くそっ……なんで、僕がっ……」


 歯をガチガチと鳴らしながら、苛立たしげに顔を顰める。


 ——あの女……あの女さえいなければ、僕は……っ。


 悔しさが込み上げて、下唇を強く噛んだ。


 すると——廊下の向こうから、足音が聞こえてきた。規則正しい、重い足音。また看守がやってきたのだろうか。スコットは顔を上げる気力もなく、視線だけを牢の鉄格子の向こうへ向けた。


 足音が近づいてくる。同時に、ランプの橙色の光が濃くなっていく。やがて——ある人物が、スコットの視界に姿を現した。


 瞬間、スコットの瞳が大きく見開かれる。


「——セドリック、会長!」


 声が弾んだ。残された体力を振り絞って立ち上がると、スコットは鉄格子にしがみついた。冷たい鉄が掌に食い込む。けれど、そんなことはどうでもよかった。


 セドリックと呼ばれたその男性は、スコットを見下ろして琥珀色の瞳を細めると——どこか困ったように、笑みを浮かべた。


「よー、スコット。元気……じゃねぇか。あはは」


 呑気な声だった。その声を聞いて、スコットは思わず笑みをこぼす。けれどすぐに、懇願するように彼の服を掴んだ。


「会長! 僕をここから出してくださいっ……僕はこの国のために行動しただけです!」


「………」


 必死に訴えるスコットを、セドリックはただ見下ろしていた。そして——呆れたように、ため息をついた。


「……お前さ」


 セドリックが、静かに口を開いた。


「確かにレイシーは怪しいって話はしたけど、暗殺まで普通考えるか? お前はいつも極端すぎるんだよ」


 その言葉に、スコットは息を詰まらせる。けれど——諦めきれなくて、必死に言葉をかき集めた。


「けど、あの女は危険分子です! 捕まる前に言っていたんです……あの女、会長のことも知っていましたよ! いつかこの国だけじゃなくて、会長たちにも危害を加えます!」


 スコットの訴えを聞いて、セドリックは少し黙り込んだ。考えるように顎に手を当てる。琥珀色の瞳が、興味深そうに細められた。


「……ということは、レイシーはもうこっちの存在を知っているってことだな。……はぁ、めんどくせぇ。あの女、どこまで知ってるんだよ」


 セドリックが頭を掻きながら、めんどくさそうにため息まじりにそう言って項垂れる。その言葉はどこか意味深だった。スコットは彼の様子を心配そうに見つめるも、好機と言わんばかりに言葉を続けた。


「僕なら今度こそ、あの女が何かをやらかす前に芽を潰してみせます! どうか僕をここから出してください! 絶対にお役に立ってみせます!」


 スコットの言葉が牢獄内に響く。けれど——セドリックは、何も反応を示さなかった。ただ黙って、スコットを見つめている。気まずい沈黙が落ちた。スコットの心臓が、不安に激しく打ち始める。


 すると、その沈黙を破るようにセドリックが深くため息をついた。ゆっくりとしゃがみ込んで、スコットと目線を合わせる。


「……スコット。俺はお前のこと、好きだぜ? いつも真面目で、仕事もちゃんとやってくれるし……ずっと可愛い後輩だと思ってた」


 セドリックの手が伸びてきて、スコットの頭を優しく撫でた。その手つきは、まるで——別れを告げるかのように、優しかった。


「けどな。その真面目さが、いずれお前だけじゃなくて俺らの組織にも害を成すんだよ」


「………え」


 スコットの思考が、止まった。セドリックが立ち上がる。スコットから離れていく。そして——影の方を向いて、静かに告げた。


「……オズ。もういいぜ」


 その言葉を合図に——影から、一人の青年が姿を現した。金色の癖毛。深緑色の瞳。


「——っ!」


 スコットの顔から、血の気が引いた。オズワルド・ウィズダム。記憶操作の能力を持つ、情報保管都市のロード代理——嫌な予感が、スコットの全身を駆け巡る。冷や汗が、背筋を伝った。


 オズはスコットに視線を固定したまま、セドリックに話しかける。


「……もういいのか?」


 確認するような声。セドリックは短く、頷いた。


「ああ、やってくれ」


 ——スコットの嫌な予感は、的中した。


 セドリックが背を向けて、スコットから離れていく。オズがゆっくりと牢に近づいてくる。鉄格子越しに——その手が、スコットの頭を掴んだ。


「やめ——」


 深緑色の瞳が、妖しく光る。瞬間、スコットの身体から力が抜けた。身体が動かない。声も出ない。ただ口だけが、辛うじて動いた。


「会長っ……! セドリック会長! どうか助けてください!」


 懇願する。縋りつく。けれど——セドリックは振り返らなかった。ただ背中を向けたまま、静かに歩き出す。


「……スコット・レイウッド書記。今日からその役職の剥奪と、学園からの追放を命じる」


 その声が、冷たく響いた。


「………っ」


「……安心しろ。俺たちの記憶を消すだけだ。……元気でな」


 セドリックが、歩きながら手を振る。その背中が——どんどん遠ざかっていく。


「ちくしょおおおおおっ‼︎」


 スコットの叫び声が、監獄中に響き渡った。けれど——もう、届かない。


 意識が、朦朧としてくる。身体から力が抜けて、床に崩れ落ちた。冷たい石の感触が、頬に触れる。


 走馬灯のように、記憶が蘇ってくる。生徒会室での日々。セドリックの笑顔。書類整理をしながら交わした、他愛もない会話。あの日々は——もう、二度と戻らない。涙が一筋、頬を伝った。


 スコットは静かに瞼を閉じると——そのまま、闇に沈んでいった。


*  *  *


(……やっと寝たか)


 オズはスコットが完全に意識を失ったのを確認すると、小さく息をついた。手を離す。彼の身体が、床に崩れ落ちる音がした。


 踵を返して帰ろうとした——その時。重厚な長靴の足音が、廊下の奥から響いてきた。オズは足を止める。


「……終わったのか?」


 低く、静かな声。監獄の廊下の奥から姿を現したのは、一人の男性だった。綺麗な赤髪。緋色の双眸。国指定の軍服に、厚手のコートをきっちりと身につけている。軍帽を深く被ったその姿は——威厳に満ちていた。


 ティム・ドージャー。この空中監獄の主であり、ドージャー家の現当主。


 オズは軽く頭を下げる。


「……ああ、終わったぞ。慣れているならわかるだろ」


 少しの皮肉を交えてそう言うと、視線をスコットに戻した。ティムはその皮肉を意に介さず——むしろ、無表情ながらも小さくため息をついた。


「……仕方ないとはいえ、いつまで経っても慣れないものだ」


 静かにそう呟くと、ティムはゆっくりとオズに近づいてくる。黒手袋をはめた手が上がり——そして、オズの頭を優しく撫でた。


「ご苦労だった。……あとは私に任せて、早くお家に帰りなさい」


 淡々としているが——どこか労りのある声だった。オズは何も言わなかった。ただ黙って、その手の温もりを感じていた。


 やがてティムが手を離すと、その手で合図をする。その合図を受けて——控えていた看守たちが影から現れた。牢の扉を開け、床に倒れたスコットの身体を起こす。看守たちが彼を担ぐ。ティムもその後に続いて、その場を去っていく。


 ——その入れ違いで、セドリックが戻ってきた。


「あ、もう終わった?」


 軽い調子でそう言う。オズは訝しげに眉を寄せた。


「……なんだ。まだいたのか? てっきりもう帰って、女遊びにでも興じていたのかと思ったぞ」


 相変わらず生意気な態度を隠さずにそう言うと、セドリックは意に介さず笑い声を上げた。


「流石にそこまで薄情じゃねぇよ。それにしても、いつも助けてもらって悪いな」


 そう言いながら、オズの頭をポンポンと撫でる。オズはセドリックの手を払いのけた。


「勘違いするな」


 厳しい声が監獄内に響くとオズは深緑色の瞳を釣り上げる。


「一族の意向だからやっているだけだ」


 そんな彼の態度にセドリックは一瞬目を瞬くも、その場で噴き出して困ったような笑みを浮かべた。


「お前、本当に可愛くねぇな……まあ、それはそれとして。ちょうど書記の椅子が空いたんだが……どうだ? お前なら歓迎なんだけど」


 露骨な勧誘だった。オズは反射的に嫌な顔をし、断固とした声を上げる。


「断る。何が悲しくて組織に属さないといけない。そんな下心丸出しでよく口説けたものだな……童貞か」


 皮肉と嫌味をたっぷり混ぜた言葉を投げかける。話は終わったと言わんばかりに肩をすくめると、オズは彼に背を向けてその場を去った。


「おい、誰が童貞だ! ……ってもういないし」


 セドリックのぼやきが、遠くから聞こえる。


「はぁ……あいつの力、便利だからうちで使いたいんだけどなー」


 そう言いながら、悩むように頭を掻く音。そして——


「……仕方ない。あの子を使うか」


 ニヤリと口角を上げる気配。その呟きは、空中監獄の闇に消えていった。


*  *  *


 オズは彼の思惑など知らぬまま、空中監獄を後にした。凍てつく夜風が頬を刺す。白い息が、闇に溶けていく。家路を辿りながら、オズは無表情のまま歩き続けた。


 ——やがて、娼館の前を通り過ぎる。その時だった。


「ね、姐さん! 待ってよ〜」


 涙目の声が、夜の街に響いた。オズは思わず足を止める。視線を向けると——薄桃色の髪をした少女が、誰かを追いかけて駆けていくところだった。


 少女がオズの隣を通り過ぎる。その瞬間——オズの深緑色の瞳が、彼女を捉えた。思わず振り返る。まるで魅入られたように、その少女の後ろ姿を見つめていた。薄桃色の髪が、街灯の光を受けて揺れている。


 オズはそのまま立ち尽くす。

 ——少女の姿が、夜の闇に消えていくまで、じっと目に焼き付けていた。


ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました!


もしこの物語を少しでも好きになっていただけたなら、

オリジナル表紙+書き下ろし短編を収録した電子書籍版もご用意しています。


ノエルとレイシーのその後を、少しだけ綴りました。


https://cocorofactory.booth.pm/


XやInstagramでも、作品に関するイラストや制作のことを綴っています。

よろしければ、そちらも覗いてみてください。


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