20
ベルが起こした事件から一週間が過ぎても、放課後の校舎は相変わらず静寂が満ちていた。
廊下を歩く生徒の足音も、教室から漏れる談笑の声も、もうほとんど聞こえない。西日が窓から差し込み、磨かれた床に長い影を落としている。
「……なぁ、聞いたか? マルクス・ヴァイスの事件、真犯人が捕まったらしいぞ」
「ああ。実は『白うさぎの花園』のベルって子が、マルクスを操ってたんだって……おとなしそうな子だったのに。人は見かけによらないな」
廊下の向こうから聞こえてきた会話に、スコットの足が僅かに止まる。
だがすぐに、何事もなかったかのように歩みを再開した。足音を極力抑えながら、目的地へと向かう。
空き教室の扉を開ける。
薄暗い室内に、夕陽の光が斜めに差し込んでいた。整然と並んだ机と椅子。誰もいない静寂。窓の外では、風に揺れる木々の葉音だけが微かに聞こえている。
スコットは手に持ったダンボール箱を自分の机に置くと、引き出しを開けた。教科書、ノート、筆記用具……それらを黙々と箱に詰めていく。その動作は丁寧で、いつもの彼らしい几帳面さが表れていた。
カチャリ。
扉が開く音が、静寂を破った。
スコットは振り返る。
扉の向こうに立っていたのは、見慣れた白い髪の少女だった。
「……あら、スコットくん?」
レイシー・ロンジェヴェティが、僅かに驚いたように目を瞬かせている。青空のように澄み切った瞳が、彼を捉えた。
スコットはいつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「こんにちは、レイシーさん。……どうしてここに?」
自然な声色。柔らかな笑顔。生徒会書記としての、模範的な態度だった。
レイシーは教室に足を踏み入れると、困ったように苦笑を浮かべる。
「実は忘れ物をしたから取りに来たの」
彼女は自分の机へと歩き始めた——が、その途中で足を止める。視線が、スコットの机の上に置かれたダンボール箱に向けられた。
「……みんなから聞いたわ。フロストファージにある男子校に転校するんですってね」
レイシーの声には、どこか探るような響きがあった。だが表情は相変わらず優しげで、心配そうな色を滲ませている。
スコットは穏やかに頷いた。
「……うん、実はそうなんだ。そっちでやりたいことがあるからね」
「そう……それにしても、荷物をまとめるのは早すぎじゃない? 引っ越すのは一週間後でしょう?」
彼女は不思議そうに首を傾げる。その仕草はあまりにも自然で、まるで純粋な疑問を投げかけているかのようだった。
スコットは少し俯くと、憂いを帯びた表情を浮かべる。
「そうなんだけど、なんか今回の事件で落ち着かなくてね。……ベルも捕まってしまったし」
声に僅かな憂いを混ぜる。表情にも影を落とす。
レイシーは眉根を寄せ、同情するように彼を見つめた。
「……大丈夫? ベルと仲が良かったのでしょう?」
「……僕は大丈夫。ちょっとショックだったけど……なんとか乗り越えて見せるよ」
スコットは顔を上げると、いつもの穏やかな笑みを浮かべて見せる。そして、話題を変えるように言葉を続けた。
「会長から聞いたよ。君も大変だったみたいだね……もう休んでなくて大丈夫?」
気遣うような声色。優しげな眼差し。
レイシーは一瞬だけ目を瞬かせると、安心させるように微笑んだ。
「ええ、大丈夫よ。……むしろ、動いてないと気が滅入っちゃって」
「ああ、わかるよ。他のことをして気を紛らわせたいよね……」
スコットは共感するように頷く。だが、その視線がチラリと彼女の机に向けられた。
そして——
「そういえば……忘れ物をしたって言っていたね。どんな忘れ物をしたの?」
穏やかな笑みを浮かべて、心配するように声をかける。早めに話を切り上げたい……そんな意図が、僅かに言葉の端に滲んでいた。
レイシーの青い瞳が、一瞬だけ細められる。だがすぐに、いつもの優しげな笑みに戻った。
「そういえばそうだったわ。スコットくんと話すのが楽しくて……ごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうに微笑むと、自分の机へと歩み寄った。引き出しを開け、中を探る。白い指先が、何かを掴んだ。
それは、小さな小瓶だった。
スコットの目が、その中身に何も入っていない小瓶を捉える。
一瞬——ほんの一瞬だけ、彼の表情が硬直した。
だがすぐに、いつもの穏やかな笑みに戻る。指先が、僅かに強張っただけだった。
レイシーはゆっくりと顔を上げると、小瓶を手のひらに乗せたまま、じっとスコットを見つめる。
「……この小瓶を、知ってるの?」
声は優しげだった。だが、その青い瞳には——何か、探るような光が宿っていた。
スコットは笑って見せた。
「なんのこと?」
自然な声色。だが、心の奥では警戒心が走り始めていた。
彼はダンボール箱を抱え上げると、軽い調子で言葉を続ける。
「……あ、僕もう行かないと。先生に転校の手続きするために会いに行かないといけなくて」
足早に扉へと向かう。このまま、この場を離れた方がいい——そんな直感が働いていた。
扉に手をかける。
ガチャリ。
動かない。
スコットの眉が、僅かに寄せられた。もう一度ノブを回す。
ガチャガチャ。
やはり、開かない。鍵がかかっている。いや、さっきまで開いていたはずなのに——
「なんで……」
困惑が、声に滲む。喉の奥が、僅かに渇き始めていた。
その背中に、ゆっくりと足音が近づいてくる。
「……前々から言おうと思っていたんだけど」
レイシーの声が、すぐ背後から聞こえた。
スコットは深く息を吸うと、ゆっくりと振り返る。表情は穏やかなままだった。
少なくとも、表面上は。
レイシーが目の前に立っていた。
彼女は顔を近づけると、スコットの首元に鼻を寄せる。その白い髪が、夕陽に照らされて金色に輝いた。
「スコットくんって、いい匂いがするわよね」
彼女の声は、相変わらず鈴を転がすように美しい。スコットの心臓が、少しだけ早く打ち始めた。だが、彼は平静を保つ。
「とてもいい匂い。甘くて、香水とは違う自然由来のいい香り……」
レイシーは満足そうに目を細めると、ゆっくりと顔を離した。そして——その青い瞳が、冷たく光る。
「そういえば、マルクスくんがもらった手紙も同じ匂いがしていたわ」
その言葉に、スコットの指先が僅かに震えた。
心臓の鼓動が早まる。喉が渇く。額に、冷たいものが滲み始めていた。
だが——彼は必死に、穏やかな笑みを保とうとする。
「……何が言いたいのかな?」
声は静かだったが、その奥には緊張が滲んでいた。拳を握りしめる。震えを抑えようとするが、指先がわずかに震えている。
レイシーは、その様子をじっと見つめていた。まるで、獲物を観察する猛禽類のように。
そして——彼女は、完璧な笑みを浮かべた。
花が咲くような、美しい笑顔。だが、その青い瞳は一切笑っていなかった。むしろ、どこまでも冷たく、暗く——光を通さない闇のようだった。
「……単刀直入に言うね、スコットくん」
鈴を鳴らすような声が、静寂の教室に響く。
夕陽が二人を照らし、長い影が床に伸びていた。風が窓を叩く音だけが、やけに大きく聞こえる。
スコットの背筋に、冷たいものが走った。心臓が激しく跳ねる。呼吸が浅くなる。冷や汗が背中を伝った。
まずい。
だが、もう遅かった。
レイシーは、スコットの目を真っ直ぐに見据えた。
そして——
「あなたが、私に毒を盛った犯人でしょう?」
その言葉が、静かに、けれど確信に満ちて告げられた。
スコットの世界が、一瞬だけ止まった。
血の気が引いていく。心臓が激しく脈打ち、呼吸が乱れる。拳を握りしめた手が、小刻みに震えていた。
もう——隠しきれない。
◆これ誰だっけ?となったとき用の【登場人物一覧はこちら】https://ncode.syosetu.com/n8468lk/31/
( キャラクターのイラスト付き ※第14話までのネタバレを含みます。未読の方はご注意ください)




