19
倉庫に、静寂が戻った。
レイシーはベルを見下ろしながら、彼女が完全に動かなくなるのをじっと待つ。やがてベルの荒い息遣いが穏やかになり、その身体から力が抜けていく。もう暴れる気配はない。
(……やっと眠り薬が効いたのね)
先ほど鈴蘭の毒と説明した眠り薬がようやく効いて、レイシーは小さく息をついた。
——その瞬間、膝から力が抜けた。
「っ……はぁ……はぁ……」
床に膝をつき、胸を強く押さえる。深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。だが吐息は震え、額には冷や汗が滲んでいた。
全身を裂くような痛みが駆け巡る。
まるで身体の内側から何かが暴れているような、灼熱の痛み。瞼をきつく閉じ、歯を食いしばって耐える。慣れた動作で、深呼吸を繰り返した。一度、二度、三度――やがて痛みが引き始める。
痛みが薄れていくと同時に、レイシーの表情から緊張が解けた。
「……ちっ」
苛立たしげに舌打ちをして、乱暴に髪を掻き上げる。そしてゴミを見るような冷たい眼差しで、床に倒れたベルを見下ろした。
「手間取らせやがって……毒のせいで身体中が痛ぇんだよ、あばずれが」
吐き捨てるように呟く。
今までの天使のような表情は消え失せ、荒々しい顔つきがそこにある。青い瞳には、氷のような冷たさが宿っていた。その姿は、周囲が抱く『白薔薇』のイメージとはかけ離れたものだった。
ふと、視線を上げる。
天窓から差し込む月明かりが、倉庫の床を青白く照らしていた。妖しく美しい満月が、彼女を静かに見下ろしている。
その光景に、レイシーの表情が僅かに歪んだ。
「……姉さん」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「私、ちゃんとやれてる?」
問いかけに、答えはない。ただ月明かりだけが、静かに彼女を照らし続けている。
月を見つめる彼女の瞳は、どこか切なげで——儚かった。普段の冷徹さは消え、ただ寂しげに揺れている。
しばらく頭上の月を眺めていたが、やがてレイシーは首を振った。感傷を振り払うように、表情を引き締める。
(……そんなこと考えてる場合じゃない。ノエルが探してるはず)
彼の心配そうな顔が脳裏に浮かぶ。きっと今頃、学園中を走り回って探しているに違いない。早く無事を知らせないと——
レイシーは立ち上がると、倉庫の扉へと歩み寄った。
重い木製の扉に手をかける——その瞬間。
ガンッ!
扉が大きな音を立てて揺れた。
「きゃっ!」
驚きに小さく悲鳴を上げて、レイシーは咄嗟に後ずさる。心臓が跳ねた。
(誰……?)
困惑したように、扉を見つめる。誰かが外から扉を叩いているのか——いや、違う。もっと激しい衝撃だ。
再び、扉が大きな音を立てて揺れる。
誰かが鍵を壊そうとしている。そう確信した瞬間、三度目の衝撃が走った。金属が軋む音が響き、やがて鍵が壊れる音がした。
ガシャン!
次の瞬間、扉が勢いよく開け放たれた。
月明かりを背に、一人の人影が立っている。逆光で顔はよく見えないが——その褐色の肌と、漆黒の髪は見間違えようがなかった。
「はぁ……はぁ……」
肩で荒く息をする彼の姿を見て、レイシーは息を呑んだ。
「……ノエルくん?」
掠れた声でその名を呼ぶ。
——瞬間、彼女は深く息を吸った。
荒い呼吸を整え、眉間の皺を緩め、表情から力を抜く。先ほどまでの苛立ちを心の奥に押し込めて、いつもの『白薔薇』を纏う。慣れた動作だった。
彼女の声を聞いた瞬間、ノエルは咄嗟に顔を上げる。
目が合うとその緋色の瞳が大きく見開かれ、激しく揺れた——次の瞬間、彼は地を蹴って駆け出した。
* * *
「レイシー!」
「ちょっ……!」
咄嗟に彼女の手首を掴んで引き寄せると、存在を確かめるように強く抱きしめた。
彼女の体温が伝わってくる。温かい——生きている。その事実に安堵の息を漏らすと、少しだけ身体を離して彼女の頬に手を添えた。
「大丈夫か⁉︎ 怪我はないか⁉︎ 何もされなかったか⁉︎」
矢継ぎ早に言葉を投げかける。前のめりになって、彼女の身体を確かめるように見つめた。見たところ、制服は土で汚れて少し乱れているが、目立った怪我はないように見える。
レイシーは——立ち尽くしたまま、目を見開いて呆然としていた。
まるで状況が飲み込めないように、ただ彼の切羽詰まった表情を見つめている。ノエルの腕の中で、彼女の身体が僅かに震えた。
しばらく銅像のように固まっていたが、やがてハッと我に帰ったように肩の力を抜く。そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、ノエルくん……私はこの通り、無事よ」
彼を安心させるように、柔らかな声で彼女はそう告げる。
その言葉に、ノエルは少しだけ安堵した様子を見せた。だが、まだ油断はできない。彼は眉を寄せたまま、彼女の顔を覗き込んだ。
「本当に大丈夫か? 顔が赤いみたいだが……」
もしかして何かされたのか——そんな心配が頭をよぎる。顔を近づけて、じっと彼女の表情を観察した。
その瞬間、レイシーの白い頬がさらに赤く染まる。彼女の身体が、再びこわばった。恥じらうように視線を逸らすと、しばらくして震える声を絞り出す。
「……急に抱きつかれたら、誰だって照れるでしょ」
「………あ」
ようやく状況を理解した。
ノエルは彼女と同じように頬を赤く染めると、慌てて身体を離した。距離を取りながら、気まずそうに視線を泳がせる。
「す、すまない……君に会えて、つい嬉しくて」
「……っ」
ノエルの口からこぼれた本音に、さらにレイシーの顔が赤く染まる。彼の目が見られず顔を俯かせると、しばらく悶えるように沈黙した。
「……レイシー?」
様子のおかしい彼女を心配そうに見つめる。もう一歩近づこうとして――ノエルの視線が、床に倒れている人影を捉えた。
「……ベル?」
目を見開く。
床に倒れているのは、間違いなくベルだった。動かない身体を見て、ノエルは息を呑んだ。
咄嗟にレイシーを背中に庇うと、恐る恐るベルに近づいて脈を測る。
規則正しい鼓動が指先に伝わってきた。
「……寝ている?」
健やかな寝息を立てて眠っているベルを見て、ノエルは訝しげに眉を寄せた。状況説明を求めるように、レイシーへ視線を向ける。
それを察して、彼女は視線を落とすと肩をすくめた。
「……お茶会の途中で気を失って、目が覚めたらここにいたの。ベルが注射器で毒を打とうとしてきたから、少し揉み合って……薬で眠らせたわ」
「……そう…なのか?」
少し疑わしげに彼女を見つめる。
その視線に気付いたのか、彼女は苦笑を浮かべて眉根を寄せた。
「私も戦闘演習に参加しているのよ?やる時はやるわ」
その言葉にノエルはたじろぐ。
確かに彼女は自分の身を守る術はあるだろうが、どこか違和感を拭えなかった。
(彼女は一体何者なのだろう…)
先日マルクスを蹴り続けていたあの冷たい眼差し。今の優しげな笑顔。能力を持たないはずなのに、ベルを制圧できたという事実——
疑問は次々と浮かぶが、今はそれを追及すべきではない。何より、彼女が無事だったことが一番大切だった。
ノエルは小さく首を振って考えを振り払うと、改めてベルの方に視線を向けた。
「……ということは、今までの犯人はベルで間違いないのか?」
そう呟いて、レイシーに確認する。
おそらく彼女が関与しているのは間違いないが、どこか違和感が拭えない。少しの沈黙が倉庫内に流れた。やがてレイシーが少し考える素振りを見せると、小さく首を振る。
「……ベルがこの件に関与しているのは間違いないと思う。でも、数ヶ月前から私を毒殺しようとしていた本人ではないと思うの」
「……どうしてだ?」
レイシーの言葉に一瞬、緋色の目を見開かせるも、すぐに真剣な表情で彼女を問いただす。彼が自分の言葉に耳を傾ける姿を確認すると、レイシーは控えめに笑みを浮かべて言葉を続けた。
「さっき私に毒を打とうとした時、手が震えていたの。何度も毒殺を試みてきた相手にしては、少し躊躇っていたわ……真犯人なら、そんな反応はしないと思う」
レイシーの冷静な考察に、ノエルは少し考える様子を見せる。しばらくして、彼も彼女の言葉に同意するように頷いた。
「……俺もそう思う。とても一人でここまでできたとは思えない」
これまでのことを思い返して、そう断定する。
能力を持たないと言っていた彼女が、一人でマルクスの意識を操ったとはとても思えなかった。明らかに彼の意識を操ったのは、何らかの薬ではなく——人為的に、能力で操られていたのだ。
「……となると、また犯人探しを一からやり直しね」
レイシーは少し不安げに眉を寄せると、顎に手を当てて深く考え込むように項垂れた。
「ベルが起きたら憲兵に尋問してもらって、真犯人を吐かせるしかないけれど……彼女がそう簡単に名前を言うかしら?」
憲兵の中には自白を促す能力者もいるだろう。だが慎重な犯人が、そこまで考えていないとはとても思えない。おそらく何か根回しはしているはず——そう考えたレイシーは、苦虫を噛んだように顔を歪ませた。
(……一から……)
レイシーの言葉に、ノエルは深く考えるように項垂れる。
あの時、鼻腔を掠めた甘い香り——その人物がノエルの脳裏によぎった。彼は顔を上げると、真剣な眼差しで彼女を見据える。
「……レイシー、俺は犯人を知っているかもしれない」
「——え?」
ノエルの言葉に、呆気に取られて目を大きく見開く。
けれど彼の真剣味のある表情を見て、彼が犯人に心当たりがあることを悟った。レイシーは静かに頷くと、耳を傾ける姿勢を取る。
「……詳しく教えて、ノエルくん」
◆これ誰だっけ?となったとき用の【登場人物一覧はこちら】https://ncode.syosetu.com/n8468lk/31/
( キャラクターのイラスト付き ※第14話までのネタバレを含みます。未読の方はご注意ください)




