18
「けほっ! こほっ!」
レイシーが静かに身体を離すと、ベルは激しく咳き込んだ。
喉の奥から込み上げる苦味。必死に飲まされた液体を吐き出そうとするが、もう遅い。温かいそれは確かに喉を通過し、食道を滑り落ちていった。胃の中に沈んでいく感覚が、妙に生々しく伝わってくる。
床に手をつき、何度も咳き込む。涙で滲んだ視界の先に、レイシーの足元が映った。
ゆっくりと視線を上げる。
月明かりに照らされた彼女の姿が、そこにあった。
白い髪が銀色に輝き、青い瞳は氷のように冷たく光っている。その表情は相変わらず人形のように美しく——そして、恐ろしいほど無機質だった。まるで感情を持たない、精巧に作られた陶器の人形のように。
「……今飲ませた毒ね」
レイシーが口を開く。
優しく微笑みながら、まるで花の名前を教えるかのような柔らかな声で。
「鈴蘭の球根から抽出したものなの。あなたにぴったりでしょう?」
——毒?
ベルの心臓が跳ねた。
今、毒って言った?
顔から血の気が引いていく。全身が震え出し、思わず口元を手で覆った。
(嘘……嘘でしょ?)
毒を盛られた——その事実が、ゆっくりと脳に染み込んでくる。
いや、待って。もし本当に毒なら……
ベルの視線が、レイシーの唇に向けられた。
さっき、口移しで飲まされた。ということは、彼女も毒を口にしたはずだ。なのに、なぜこんなに平然としているの? なぜ、何も起きていないの?
混乱が頭の中を駆け巡る。
視界の焦点が合わない。意識がぼんやりと霞み始めている。もう毒が回ってきたのか、それとも恐怖のせいなのか——判断がつかなかった。
そんなベルを見下ろすレイシーは、涼しい顔で服の袖で口元を拭う。そして——いつもの、天使のような笑みを浮かべた。
「……ふふ、念のために口の中に毒入りカプセルを仕込んでおいてよかったわ」
花が咲くように、可憐に微笑む。
「あなたが私の手荷物を没収するのはわかっていたから、万が一と思って用意していたの。まさか役立つと思わなかったけど」
その笑顔——いつもなら周囲を魅了するその美しい笑顔が、今は恐怖しか感じさせない。
ベルの身体が震える。ガタガタと、制御できないほどに。
レイシーは構わず、言葉を続けた。
「その毒ね、すぐに効果が出ると思うわ。多分、少しずつ嘔吐、頭痛、めまいなどの症状が起きるんじゃないかしら?」
——嘘。
ベルの顔からさらに血の気が引いた。
確かに、頭が痛い。クラクラと、めまいがする。世界が傾いているような感覚。
レイシーの言葉に、恐ろしいほどの信憑性が増していく。
(本当に……毒なの?)
目に涙が溢れた。震える身体を押さえようとしても、止まらない。首を大きく横に振る。否定したい。これは悪い夢だと、そう思いたかった。
だが、レイシーは容赦なく近づいてくる。
月明かりに照らされた影が、ゆっくりとベルを覆った。
レイシーはベルと目線を合わせるようにしゃがみ込むと、細い指先で彼女の心臓の位置を突いた。
「次第に心臓や呼吸が弱くなり、血圧が低下して心不全を起こすわ」
優しく微笑む。
だが、その青い瞳は一切笑っていなかった。
「……最悪の場合、心臓麻痺を起こして死に至ることがあるかもね」
——ぁ。
心臓が、凍りついた。
身体中の熱が、一気に奪われていく。時が止まったように、震えすら止まる。呼吸をすることを、忘れた。
「ぁ……あぁっ……」
掠れた声しか出ない。
絶望が、全身を支配する。涙がポロポロと頬を伝い落ちた。ゆっくりと、けれど何度も何度も首を振る。
「やめて……やだ……やだっ……!」
レイシーの言う通り、めまいと頭痛がひどくなっていく。
世界から音が消えたように、心臓の不規則な鼓動と自分の荒い息遣いだけが、やけに大きく耳に響いた。この状況に絶望しているせいなのか、それとも毒のせいなのか——もうわからない。
ただ一つ、確かなことがある。
死の危機が、すぐそこまで迫っている。
「解毒薬……解毒薬を頂戴! お願い……持ってるんでしょ!」
ベルはレイシーの足に縋りついた。
平然としている彼女の姿を見れば、解毒薬を持っているのは明らかだ。じゃなければ、こんなに平気でいられるはずがない。
懇願する。必死に、必死に——
レイシーは一瞬、笑みを消した。
ゴミを見るような、冷たい眼差しがベルに向けられる。光を通さない、深い闇を湛えた瞳。
だが次の瞬間、彼女は可愛らしく笑い声を上げた。
「ふふ、馬鹿なベル。私の手荷物を没収したのは、あなたよ?」
クスクスと、鈴を転がすように笑う。
「私がそんなものを持っていたら……あなたがすぐに気づくはずでしょう?」
——っ!
ベルは青ざめた。
確かに。彼女の手荷物を没収した際、そんなものはなかった。毒も、解毒薬も、何も——
その事実に気づいた瞬間、レイシーの足に縋った手が激しく震えた。
だって、彼女も毒を口にしたはずだ。解毒薬がないなんて——
「異常よ……どうかしてる……っ!」
自分も死ぬかもしれないのに、口移しで毒を飲ませるなんて。イカれてる。狂ってる。そうとしか言いようがない。
ベルの考えを察したのか、レイシーの瞳が妖しく光った。
不気味に口角を上げ、ベルを嘲笑う。そして——光を一切通さない、暗闇のような瞳で彼女を見下ろした。
「……言ったでしょう? 許さないって」
低く、冷たい声が倉庫に響く。
「私は意外と、執念深いのよ」
心臓が嫌な音を立てて鳴り響いた。
呼吸が、できない。
視界がぼやけ、意識が遠のいていく。レイシーの姿が二重に、三重に見える。気がつけば、ベルの身体が床に倒れ込んでいた。
冷たい。床が、こんなに冷たいなんて知らなかった。
目の焦点が合わなくなる。瞼が、重い。
次第に迫る死の気配を感じて、ベルは悟った。
(……ああ、私……死ぬのね)
なんて、あっけない。
自分の短い生涯が、走馬灯のように頭を駆け巡る。涙が一筋、頬を伝った。
なんて惨めで……悲しい最期なの?
(……せめて、あの人に別れを告げたかった)
脳裏に、ある人物の笑顔が浮かぶ。温かくて、優しくて——もう二度と会えない。
混濁する意識の中、ベルは最後の力を振り絞ってレイシーを見上げた。
恨めしげに、憎しみを込めて。
せめて、彼女の美しい白い肌に傷をつけられたことが、自分への救いだろうか。そう思って、視線をレイシーの頬に向ける。
さっき、爪で引っ掻いた傷——
——あれ?
ベルの眉が、ピクリと動いた。
意識を失う寸前、ある違和感が脳裏を過ぎる。
(……なんで?)
なんで、私が引っ掻いた傷が——
消えているの?
確かに血が滲んでいたはずの頬が、まるで何事もなかったかのように白く美しいまま、月明かりに照らされている。
(どうして……?)
その疑問を最後に、ベルの意識は闇に沈んだ。
倉庫に、静寂が戻る。
月明かりだけが、床に倒れた少女と、立ち尽くす『白薔薇』を静かに照らしていた。
◆これ誰だっけ?となったとき用の【登場人物一覧はこちら】https://ncode.syosetu.com/n8468lk/31/
( キャラクターのイラスト付き ※第14話までのネタバレを含みます。未読の方はご注意ください)




