16
暗闇の中、天井の小窓から差し込む夕陽が、床に倒れた少女の白い頬を赤く染めていた。
「……んっ」
レイシーは微かに息を漏らし、冷たい床の感触とともに意識を取り戻した。瞼を開くと、視界が滲む。頭の奥に、鈍く重たい感覚が残っていた。
(………ここは?)
身体を起こそうとして、思うように力が入らないことに気づく。
腕が、動かない。
背中で縛られた手首に、麻縄が深く食い込んでいた。力を込めた瞬間、縄が擦れる音がして、指先に鈍い痛みが走る。
その反動で、喉がひくりと鳴った。
(拘束されてる…)
短く息を吸う。思った以上に空気が冷たく、肺の奥まで入り込んできた。
胸の内側で、規則を乱した鼓動が続いている。レイシーはそれを数拍分、ただ数えていた。
視線を巡らせる。薄暗い室内。湿った土の匂い。壁際に並ぶ園芸用具。
(…庭園の、倉庫?)
記憶を手繰り寄せる。確か、ベルにお茶会へ誘われて——それから、甘い香りがして——
その先が、霧のように曖昧だった。
「……あ、やっと起きたのね?」
闇の奥から、声が落ちてきた。
その瞬間、レイシーの肩がわずかに跳ねる。反射的な動きだった。
次いで、ゆっくりと顔を上げる。
夕陽の中に浮かび上がった少女の姿を認めて、唇がかすかに震えた。
「……ベル?」
優しげな微笑みを浮かべたベルが、そこに立っていた。
「どうしてここに……あなたも、巻き込まれたの?」
レイシーは震える声で問いかける。眉を寄せ、不安の色を滲ませながら。
だがベルは、きょとんとした表情で首を傾げ――次の瞬間、くすくすと笑い始めた。
「ふふ……あはは! まだわからないの?」
先ほどまでの優しげな笑みは消え、代わりに嘲りを含んだ冷たい笑みが浮かぶ。
レイシーの心臓が大きく跳ねた。喉が渇く。嫌な予感が、全身を駆け巡る。
「……それは、どういう意味?」
震える声で問いかけると、ベルは目尻の涙を指で拭いながら答えた。
「どういう意味って……わかるでしょ?」
笑いが収まると、ベルの表情から光が消えた。影が差し、若葉色の瞳が冷たく光
「……ずっと、あなたやお姉様たちが大っ嫌いだった」
穏やかな声が、次第に震え始める。
「序列外の私を、いつも見下して……お父さんもお母さんも、いつも私に文句ばかり言って……」
ベルは自分の腕を強く抱きしめた。制服の布地が爪に食い込み、小刻みに手が震える。
レイシーは息を呑んだ。彼女の中に渦巻く、どす黒い感情がひしひしと伝わってくる。
やがてベルは顔を上げ、殺意を込めた眼差しをレイシーに向けた。
「だから——突然現れて『白薔薇』の地位を奪ったあなたが、許せないの」
冷たい声が、薄暗い倉庫に響き渡る。
ベルはカバンに手を伸ばし、中から何かを取り出した。夕陽の光が、それをきらりと照らす。
レイシーの青い瞳が、恐怖に見開かれた。
注射器——その中には、紫紅色の液体が満たされている。
「……ベル。それで、何をするつもりなの?」
声が震える。床を這うようにして後ずさろうとするが、縄が容赦なく手首に食い込んだ。身動きが取れない。
ベルは静かに、ゆっくりと近づいてくる。優しげに微笑みながら——だが、その目は一切笑っていなかった。
「いや……近寄らないで!」
レイシーの懇願など耳に入らない様子で、ベルは歩みを止めない。やがてその足が、レイシーの目の前で止まった。
しゃがみ込み、目線を合わせる。口角が、不気味に吊り上がった。
「ああ、レイシー……ずっと、その表情が見たかったの」
ベルは恍惚とした表情で呟く。
「その恐怖に歪んだ顔を、どれだけ待ち望んだことか……クラリッサお姉様のあの表情ほどじゃないけれど」
「……! ということは——あなたが、クラリッサを嵌めたの?」
レイシーは驚愕に目を見開く。
ベルの笑みが、さらに深まった。
「ふふ……そうなの。クラリッサお姉様のあの、驚きと絶望に満ちた顔——一生忘れないわ」
「どうして……そんなことを……」
唖然とした表情で見つめるレイシー。その言葉を聞いて、ベルの笑顔が消えた。
表情が凍りつき、光を失った若葉色の瞳が、冷たくレイシーを見据える。
「……さっきも言ったでしょう? 私は、あの人が目障りだったの」
低く、冷たい声。
「序列三位の『百合』だからって、妙に上から目線で……いつも私を見下してくる。ずっとあの人の下で働かされた私の屈辱を、あなたに理解できる?」
レイシーは息を呑んだ。身体が震える。恐怖が、全身を支配していく。
「だからって……あんな濡れ衣を着せるなんて……」
「……そう? 当然の報いよ」
肩をすくめるベル――次の瞬間、彼女の手がレイシーの首を掴んだ。
「——っ!」
力任せに床へ押し倒される。冷たい床が背中に触れ、首を締め付ける力が容赦なく強まっていく。
「……そして、あなたもね」
「かはっ……!」
レイシーは苦しげに顔を歪ませた。手を外そうともがくが、縄で縛られた腕は何の役にも立たない。恐怖に染まった青い瞳が、ベルを見上げる。
ベルはレイシーにまたがると、震える手で注射器を持ち上げた。針先が夕陽を反射し、鈍く光る。
「……私のために手折られてよ、『白薔薇』」
ベルの声が震える。興奮なのか、恐怖なのか——判然としない。
「……いいえ。私たちのために」
その手が——レイシーの首筋に突き刺さった。
「あっ……!」
レイシーの目が大きく見開かれる。青い瞳が激しく揺れた。
注射器の中身が、容赦なく血管へ流し込まれていく。熱い——まるで血管が燃えるような、灼熱の痛み。
「い、や……」
掠れた声。息が、できない——
レイシーの身体が痙攣する。縛られた腕が、無意味にもがく。だが次第にその動きも弱まっていき——
やがて、動かなくなった。
青い瞳から光が消える。力なく床に沈む白い髪。もう、苦しげな呼吸音すら聞こえない。
静寂だけが、薄暗い倉庫を満たした。
ベルは震える手を、レイシーの首筋にそっと当てた。
脈を探る。指先に神経を集中させて——
……何も、感じない。
「……やった」
声が漏れる。もう一度確かめる。やはり——何も。
ベルはゆっくりとレイシーから離れ、壁に背を預け、その場にへたり込む。
「やった……やったわ……」
呟きが、震えながら口から零れ落ちる。
「やっと……やっと終わった……」
床に倒れたレイシーを見つめる。白い髪が乱れ、青い瞳は虚ろに天井を見つめている。まるで壊れた人形のように、美しいまま——動かない。
ベルは立ち上がると、もう一度レイシーに近づいた。
その頬に触れる——冷たい。
まるで陶器のように、冷たかった。
『白薔薇』はこの瞬間を持って、絶命した。
◆これ誰だっけ?となったとき用の【登場人物一覧はこちら】https://ncode.syosetu.com/n8468lk/31/
( キャラクターのイラスト付き ※第14話までのネタバレを含みます。未読の方はご注意ください)




