14
「なぁ、聞いたか?マルクスが捕まったって」
「ああ、聞いたよ…けど、あいつちょっと調子に乗り過ぎてたからいい気味だよ」
「あー…いろんな奴いびってたからな。当然の報いかもな」
少し離れた場所で立ち話をする男子生徒たちの声が、静かな廊下に響く。放課後の喧騒が遠ざかり、校舎全体が落ち着きを取り戻し始めている時間帯だった。
その声に、壁際で佇んでいたレイシーが一瞬だけ視線を向けた——が、すぐに興味を失ったように、白磁のような指先で自分の爪を弄り始める。
「………」
爪の形を確認するような仕草の裏で、彼女の思考は別のところにあった。
(……ノエル。大丈夫かな)
毒針がノエルの肩に刺さった瞬間——あの場面が何度も脳裏をよぎる。彼が苦痛に顔を歪めた表情。血が滲んだ制服。自分を庇って身を挺した彼の姿。
眉根が僅かに寄り、爪を弄る指先に力が込められていく。白い肌に爪が食い込み、三日月型の痕が赤く浮かび上がった。微かに血が滲む。
黒く歪な感情が、静かに彼女の胸の奥で渦を巻く——
「あれ〜?お祖父様に股開いて『白薔薇』になったビッチちゃんじゃーん…何やってんの?」
甘ったるい声が、廊下の静寂を切り裂いた。
レイシーはゆっくりと顔を上げる。菫色の瞳が、嘲りを含んだ笑みと共に彼女を見下ろしていた。妖艶な銀灰色の髪を揺らすたび、纏わりつく香りが距離を詰めるように鼻腔をくすぐった。
「……ごきげんよう、ヴァイオレット姉様」
完璧な微笑みを浮かべて、レイシーは応じた。だが、その青い瞳の奥には、氷よりも冷たい何かが潜んでいる。
「やっほ〜、元気〜?…まぁ、どうでもいいけど」
ヴァイオレットの嘲笑まじりの笑みと声に、内心苛立ちを覚える。けれどそれを悟られないように、レイシーはいつもの天使のような笑みを崩さない。まるで舞台上の女優のように、完璧な所作で応じた。
「…何かご用でしょうか?とてもお忙しそうに見えますが」
そう言って彼女は、廊下の奥で待機している複数の男子学生に視線を向ける。ヴァイオレットの今日の「遊び相手」たちだと悟ると、目を細めて嘲笑を浮かべた。
ヴァイオレットの眉がぴくりと動く。
「…そういえばさー、クラリッサ捕まったんだって?やばいよねー…身内の恥晒しって奴?」
クラリッサを嘲笑うようにクスクス笑うヴァイオレット。そこには情など何もない。まるで枯れた花を見るような、冷ややかな視線だった。
「あの感じだとあの子降格かな〜…お祖父様カンカンだったし」
おもしろおかしそうにケラケラ笑う彼女を、レイシーは冷たい眼差しで見上げる。だが次の瞬間には、またいつもの愛想笑いに戻っていた。
「まぁ、ひどいわヴァイオレットお姉様…私たち遠い親戚とはいえ、家族ですよ?」
レイシーの言葉に、ヴァイオレットの菫色の瞳が冷たくなる。けれどいつもの調子で軽く笑って見せた。
「あはは!家族ね…」
彼女はそう言うと、レイシーの顔に近づいた。彼女から漂う香水の甘い香りが、鼻腔をくすぐる。菫色の瞳が、すぐ間近でレイシーを見据えた。吐息が掛かるほどの距離まで近づくと、ヴァイオレットは低い声を上げる。
「…突然現れて『白薔薇』の地位を奪ったあんたが家族?笑わせるな」
殺意のこもった言葉。二人の間に凍りつくような緊張感が走った。
「……」
レイシーはただただ笑みを浮かべて沈黙した。何も答えるつもりはない。その態度に苛立ったヴァイオレットは、舌打ちして顔を離す。
「可愛げな〜…まぁ、いいや。どうせ、何聞いても『どこから来たか』教えてくれないんでしょ?」
そう言ってヴァイオレットは踵を返し、遠くにいる男性たちの元へ歩き始めた。彼女の足音が廊下に響く。
けれど、数歩進んだところで立ち止まり、振り返る。ヴァイオレットは不敵に笑って手を振った。
「じゃあ、また『白うさぎの晩餐会』でね。ビッチちゃん」
それを最後に、今度こそヴァイオレットは立ち去った。銀灰色の髪が揺れ、香水の残り香だけが廊下に漂う。
レイシーは彼女の背中を、じっと見つめていた。その青い瞳はどこまでも冷たく、まるでその背中を射殺すように細められている。
(…『白うさぎの晩餐会』)
レイシーは心の中で呟く。その言葉が胸の奥に重く沈んでいく——
カチャリ。
扉が開く音がして、彼女はっと我に帰った。振り向くと、ノエルが生徒会室から出てきて、疲れたように扉にもたれかかっている。褐色の顔には疲労の色が濃く、普段の無表情がさらに力なく見えた。
彼を見るだけで、先ほど感じていた苛立ちが、まるで氷が溶けるように緩和していく。
胸の奥に温かいものが広がった。レイシーはホッと胸を撫で下ろすと、彼に向かって駆け出す。
* * *
生徒会室の重厚な扉が背中に冷たく触れる。ノエルは深いため息をつきながら、廊下の窓から差し込む午後の光に目を細めた。西日が長い影を作り出し、磨かれた床に幾何学的な模様を描いている。
「ノエルくん!」
鈴を鳴らしたような凛とした声が廊下に響き、レイシーがノエルに駆け寄ってくる。白い髪が風になびき、青い瞳が心配の色を宿している。
(……レイシー)
彼女が近づいてくるたびに、先日の彼女の冷たい視線が頭をよぎって体を少しこわばらせる。マルクスを蹴り続けていたあの時の、氷のような眼差し。あれは本当に、目の前の少女と同じ人物なのだろうか——
だが、その考えを振り切るように、ノエルは彼女に歩み寄った。
レイシーが彼の前に立つと、心配そうに両肩に手を置く。その手は温かく、震えていた。
「大丈夫?ちゃんと言った通りに喋れた?あの変態会長に何もされなかった?」
(あの人、どんだけ信用ないんだ…)
ノエルは思わず引き攣った笑みを浮かべる。彼女の心配に苦笑を浮かべながら言葉を続けた。
「俺は大丈夫…それより、聞いたか?クラリッサが…」
「ええ、聞いたわ…とても信じられないけど…」
レイシーはそう言うと、自分の肩を抱いて視線を逸らす。まるで納得のいかない様子で、眉根を寄せて唇を噛んだ。彼女は静かに言葉を紡ぐ。
「…ノエルくんはどう思う?クラリッサお姉様がマルクスをそそのかして、私を暗殺しようとしてたと思う?」
「………」
先ほどの生徒会室での会話が頭をよぎる。セドリックの口から出た言葉。クラリッサが犯人だという証拠。便箋に感じた違和感——
ノエルは首を振った。
「…いや、俺は違うと思う…犯行にしては、ずさんだ。こんな簡単に証拠を残すと思わない」
彼が感じた違和感を、素直にレイシーに告げる。彼女は目を見開くと、彼の言葉に共感するように微笑んだ。まるで、自分と同じ考えを持つ人間を見つけた安堵のように。
「…そうよね。よかった、ノエルくんも同じ意見で」
そう言って彼女は顎に手を添え、考えるように沈黙する。窓から差し込む西日が、彼女の白い髪を黄金色に染めていた。しばらくして、彼女は口を開いた。
「…あの手紙の内容。どうも納得がいかないの」
レイシーは歩き始めた。ノエルもそれに続く。二人は並んで、人気のない廊下をゆっくりと歩く。彼らの足音だけが、静かに響いていた。
「『白うさぎの花園』の令嬢を暗殺するなら、ノエルくんが駆けつけてきた時には、ベルはもう暗殺されていたと思うの」
彼女はそう言って、ノエルの顔を伺う。
先日、駆けつけた時の光景が頭をよぎった。床に倒れ、右腕を負傷していたベル。毒針を手にして呆然と立ち尽くすマルクス——
ノエルは頷いた。
「…俺もそう思う。マルクスは君を狙う時だけ、妙に俊敏だったし、明らかに殺すつもりで毒針を振り上げていた」
ノエルが無意識に右肩に手をやると、レイシーの瞳が冷たくなった。
ほんの一瞬。だが確かに、彼女の青い瞳に氷のような光が宿る。まるで誰かへの強い怒りを押し殺しているかのように。
「………」
沈黙が落ちる。レイシーは何も言わず、ただ自分の手を握りしめていた。
「……レイシー?」
ノエルが心配を滲ませて彼女の顔を覗き込むと、彼女ははっと我に帰る。次の瞬間には、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「なんでもない…けど、マルクスがあんなに俊敏に動くと思わなかったわ…まるで本人じゃないみたい」
「……」
彼女が話を誤魔化したのを見て、ノエルは少し言葉を詰まらせる。彼女が隠し事をしているみたいで、胸の奥に小さな棘が刺さったような痛みを感じた。
けれど、彼はなるべく平静を装うように言葉を続けた。
「…もしかして、マルクスは操られていたんじゃないか?」
「…操られてた?」
ノエルの言葉に、レイシーは瞬きする。けれど、彼の確信めいた表情を見て、彼女の顔つきが真剣味を帯びた。足を止め、彼の方を向く。
「…続けて」
ノエルは一度深呼吸をしてから、慎重に言葉を選んだ。
「……マルクスは普段、俺を毛嫌いしているだろう?なのに、俺が何度話しかけても何も反応しなかった」
緋色の瞳を伏せながら、記憶を振り返る。
「最初は無視しているのかと思ったけど…目が虚ろで、どちらかというと心ここに在らずみたいだった」
あの虚ろな紫色の瞳が、鮮明にノエルの頭をよぎる。まるで魂が抜けたような、人形のような目——
「…それに、マルクスが毒針を使うのは不自然だ」
ノエルは続ける。レイシーは黙って耳を傾けていた。
「一緒にバンダースナッチの戦闘演習のクラスをとっていたが、マルクスは別に愛用の武器を持っている…証拠を残したくなくて使用しなかったという考えも浮かんだが、それなら犯行を人目につく廊下ではしないはずだろ」
ノエルの脳裏に、プライドの高いマルクスの姿が浮かぶ。確かに彼はノエルをいびっていたが、名誉や金だけで動くような人間とは思えなかった。
それを察したレイシーは、目を見開いて彼を見つめる。そして、静かに言葉を挟んだ。
「…私たちに、真犯人がマルクスだと思わせたかったから、毒針を持たせて操ったってこと?」
レイシーの確信をついた返答に、ノエルは静かに頷く。
「ああ、その方が色々説明がつく…そもそも、あの手紙の内容で彼が行動に移すとは到底思えない」
ノエルの言葉に、レイシーが少し考えるように沈黙する。風が廊下を吹き抜け、彼女の白い髪が揺れた。
やがて、彼女は彼の緋色の瞳を見つめて口を開く。
「ノエルくん…その手紙の内容についてなんだけど」
「……あれ、ノエルくんにレイシーさん?」
彼女が何か言いかけた時、誰かが二人に声をかけた。
二人は振り返る。そこに、きょとんとした顔の同級生のスコットが立っていた。赤茶色の髪を掻きながら、困惑したような表情を浮かべている。よく見ると、彼の後ろに浮かない顔のベルがいた。
「スコット…と、ベル?どうしてここに?」
レイシーが驚いたように目を瞬いて二人を見つめる。スコットは苦笑を浮かべながら答えた。
「セドリック会長が、被害者のベルにも話を聞きたいって言ってたから連れてきたんだ…ね?ベル」
スコットは優しい声色で、後ろに控えるベルに話しかける。彼女は浮かない表情で、包帯が巻かれた自分の右腕を抱いていた。その手は小刻みに震えている。
ノエルは胸を痛める。事件に巻き込まれて負傷した彼女に同情し、思わず眉根を寄せた。
「そうなの…スコットくん、生徒会書記だものね。いつも真面目で勤勉だからさっきセドリック会長が褒めてたわよ」
レイシーが自然と彼を褒めると、スコットは頭を掻いて照れたように頬を赤く染める。
「本当?会長がそんなことを言っていたなんて嬉しいなー…けど、僕はただ生徒会の…いや。この国のために動いているだけだよ」
「……この国?」
スコットの言葉に引っ掛かりを覚えたノエルが首を傾げてそう言うと、レイシーが説明するように言葉を続けた。
「生徒会は学園都市の政治に深く関わっているの。国の行事にも携わることが多いのよ」
「え!そ、そうなのか…」
知らなかった…。
まさかそんなすごい人たちだと思わずに会長を少し軽視してしまった。
少しの罪悪感がノエルの胸を痛める。
だが、そんな彼をよそにレイシーは眉根を寄せると、心配するようにベルに声をかけた。
「……ベル、大丈夫?クラリッサお姉様が捕まったって聞いたけど」
レイシーが優しく彼女に声をかける。すると、ベルはクラリッサという名前を聞いて、ビクッと体を震わせた。その翡翠色の瞳に影が差す。
目に涙が溜まっていく。やがて、ポロポロと頬を伝い落ちた。
「…ぐすっ…まさかクラリッサお姉様が…そんなに私のことが憎かったなんて…」
彼女がしゃっくりを上げて泣き始めると、周囲の空気が重くなる。見かねたスコットが彼女を抱き寄せ、優しく頭を撫でた。
「大丈夫だよベル…僕がいるから」
スコットの優しい声色に、ベルが少しずつ落ち着きを取り戻していく。彼女はホッと胸を撫で下ろすと、目尻に涙を浮かべながらスコットに微笑みかけた。
「…ありがとう、スコット」
そう言った彼女は、彼に甘えるように胸に顔を埋める。その様子を見て、ノエルは気まずそうに視線を泳がせた。
(…仲がいいんだな)
仲がいいで済ませてもいいのかわからない雰囲気だが、それ以上踏み込んではいけない気がする。ノエルは何も言わず口をつぐみ、落ち着かない様子で天井を見上げた。
「…取り込み中、悪いけど。早く生徒会室に入らないといけないんじゃない?」
レイシーが苦笑を浮かべると、気まずそうに腕を抱く。
レイシーの言葉に、慌てて二人が離れる。ベルは頬を赤くして俯き、スコットは苦笑を浮かべてベルの手を引いた。
「…そうだね。邪魔してごめん…行こうか、ベル」
「う、うん…」
ベルはまだ赤い頬のまま、スコットに手を引かれる。
二人がノエルとレイシーの横を通り過ぎる——その瞬間。
ノエルは目を見開いた。
(…あれ?)
嗅ぎ覚えのある甘い香りが、鼻を掠める。どこかで嗅いだことのある、花のような、それでいてどこか濃厚な匂い——
思わず二人の背中を、視線で追ってしまう。スコットとベルが廊下の先へと消えていく。彼らの足音が、徐々に遠ざかっていった。
ノエルはしばらく呆然と立ち尽くしていた。
「……ノエルくん?」
レイシーが首を傾げて、彼の顔を覗き込む。
「!…あ、ごめん」
ノエルは我に帰ると、レイシーに視線を戻した。けれど、先ほど嗅いだ香りが忘れられない。心の隅に引っかかり続けている。
あの香り——確か、以前にも……
ノエルは記憶の糸を手繰り寄せようとした。だが、霧の中を彷徨うように、その答えは掴めない。
(どこで…?)
心の隅で違和感を覚えながら、ノエルはどこでその香りを嗅いだか、必死に記憶を巡らせた。




