12
「なんで……」
ノエルは青ざめた。目の前の光景が信じられなくて、緋色の瞳を見開いたまま体が硬直する。
マルクスが手にしているもの——それは間違いなく、レイシーを狙っていた毒針と同じものだった。血が滴る針先を見て、ノエルの心臓が激しく脈打った。
「マルクス!」
ノエルは声を張り上げながら駆け寄り、マルクスの腕を掴んだ。指先に力を込めて——
「何をしてるんだっ!」
だが、マルクスは反応しない。いつもなら激しく反発するはずなのに、今の彼はまるで魂の抜けた人形のように呆然と立ち尽くしていた。虚ろな目が宙を見つめている。
(おかしい…これは明らかにおかしい)
ノエルの背筋に悪寒が走った。マルクスの表情には生気がなく、まるで誰かに操られているかのようだった。
「ノエルくん!」
背後からレイシーの声——その瞬間、マルクスが豹変した。
「——っ!」
虚ろだった瞳に鋭い殺意が宿る。マルクスがノエルの手を振り払う。動きが異常に俊敏だった。まるで別人のように。
「レイシー、逃げろ!」
ノエルが叫ぶより早く、マルクスがレイシーに向かって突進する。毒針を振りかざして——
時間が止まったように感じた。レイシーの驚愕した表情、マルクスの狂気に歪んだ顔、そして迫り来る死の刃。
ノエルの体が勝手に動いていた。
「——っ!」
マルクスより早く動いて、レイシーと彼の間に割って入る。間に合わない——ノエルは瞬時に判断し、レイシーを抱き寄せて身を挺した。
「あっ…!」
鋭い痛みがノエルの肩を貫いた。毒針が肉を裂く音が、やけに鮮明に聞こえる。
「ノエルくん!」
レイシーの悲鳴にも似た声が廊下に響き渡った。ノエルは痛みに顔を歪めながらも、素早くマルクスを振り返る。
「いい加減にしろ!」
切羽詰まった声で叫びながら、マルクスの腕を押さえつけて床に組み伏せた。だが、マルクスは激しく抵抗する。その力は異常で、まるで痛みを感じていないかのようだった。
ノエルは必死にマルクスを押さえ込んだ。肩から流れる血が制服を染めていく。毒が回り始めているのか、視界の端がぼやけてきた。
それでも、レイシーを守らなければ——
しばらく格闘していると、突然マルクスの体から力が抜けた。虚ろだった目に光が戻り、彼は周囲を見渡して困惑の色を浮かべる。
「…は?なんだよ、この状況…」
まるで今まで何が起きていたのか全く覚えていないような口ぶりだった。
「何って…」ノエルは肩を押さえながら彼を睨みつけた。「お前がベルに傷を負わせて、レイシーにも襲いかかったんだぞ!しらばっくれるな!」
激昂したノエルの声に、マルクスは体を震わせた。信じられないという表情で見上げると、レイシーに視線を移す。現状を受け入れられないように呆然とし、畏怖するように彼を見つめる彼女の顔を見て、マルクスは慌てて首を横に振った。
「ち、違う!俺じゃない!俺は何も覚えてない!」
マルクスは必死に否定する。そして視界に右腕を負傷したベルの姿を捉えて愕然とした。
「…は?なんで?…おい!まるで俺がやったみたいじゃねぇか!」
困惑のあまり激昂したマルクスを見て、ベルが小さく悲鳴を上げる。体を震わせ、恐怖を顔に滲ませながら震え声を上げた。
「な、何言ってるの…あなたが最初に…私…私……」
涙を滲ませて震える彼女の姿に、マルクスはさらに頭に血を上らせた。
「ふざけんなっ!花園でもクラスでも底辺なくせに……ぐっ」
「……もう黙ってくれ」
ノエルの声が、普段とは違う冷たさを帯びていた。その威圧感に、マルクスはビクッと体を震わせた。
「ち、違う…俺は何もしていない…違う……」
小さく呟きながら、マルクスはうなだれた。
ノエルは彼がおとなしくなったのを確認し、ホッと息をついて拘束を少し緩めた。
肩の傷が疼くが、毒の影響が薄れたのか、先ほどまで感じていた視界のぼやけが少しずつ晴れていく。
彼は事態がひとまず終息したと思い、胸を撫で下ろすとレイシーについて思い出して顔をあげた。
「レイシー、大丈夫か?怪我は?」
彼女に視線を向けながら、心配そうに眉根を寄せて尋ねる。
「………」
「………レイシー?」
だが、彼女は答えない。ゆっくりとこちらに近づいてくると、無言でマルクスを見下ろした。
その瞳は——今まで見た中で一番冷たく、光を失った氷のようだった。
ノエルの肩に刺さった針を見て、またゆっくりマルクスに視線を戻す。その表情に影が差し、青空のように澄んでいたはずの瞳が、深い海の底のように暗く沈んでいく。
——次の瞬間、彼女の足がマルクスの顔面を捉えた。
「がはっ!」
鈍い音が廊下に響く。ノエルは目を疑った。
「レイシー⁉︎」
状況が掴めずに困惑して呆然と彼女を見つめる。
だが彼女は止まらない。何度も、何度も、容赦なく蹴りを繰り返す。その表情は仮面のように無表情で、それがかえって恐ろしかった。まるで感情が死んだように、冷徹に『処刑』を執行しているかのようだった。
「やめっ…がっ!」
マルクスの制止の声も届かない。彼女の青い瞳には、氷のような怒りが静かに燃えていた。
「レイシー、やめろっ!」
ノエルは慌てて彼女の名を叫び、咄嗟に間に割って入る。そのまま彼女の肩を抱き、力づくで引き離そうとした。
「よくも…こいつ……」
低く呟かれた言葉が、ノエルの心臓を凍らせた。彼女の声は静かだったが、その奥に込められた怒りは凄まじかった。
「レイシー、もう大丈夫だ!マルクスはもう動けないから!」
ノエルの言う通り、マルクスは彼女の容赦ない攻撃で意識を失っていた。それでも彼女の怒りは収まらないようだった。
「あいつ…ノエルくんを傷つけて…」
怒気を含んだ震える声で呟きながら、眉間に深い皺を寄せる。その表情には、普段の彼女からは想像もできない激しい怒りが滲んでいた。
ノエルは戸惑いを隠せなかった。こんなに感情を表に出す彼女を見るのは初めてだった。
彼女はノエルの制止にも関わらず、マルクスにもう一撃を加えようと足を振り上げる。
今度は本当に息の根を止めかねない勢いだった。
「レイシー、俺は大丈夫だ。本当に…」
ノエルは慌てて優しい声色で彼女を宥めるように言った。
「…いや、大丈夫じゃないからやっぱり手当をしてくれないか?」
わざと彼女を安心させようと軽い調子で曖昧に微笑んで見せた。
彼女はもがく動きを止めてノエルを見つめる。しばらく青い瞳が彼を捉えていたが、やがて目を伏せて小さく頷いた。
「……わかったわ」
レイシーがおとなしくなると、ノエルは深いため息をついて安堵した。
改めて現状を見つめる。床には毒針が転がり落ち、マルクスは気を失い、ベルは震えながらその場に座り込んでいた。
(…どうしてこうなった?)
謎はさらに深まるばかりだった。
ノエルの脳裏に不安が過ぎる。なぜか嫌な予感がして仕方なかった。
そんな時、廊下に足音が響いた。事態を聞きつけた生徒や先生たちが駆けつけてくる。
「一体何事ですか⁉︎」
教師の声が響く中、ノエルはレイシーを見た。彼女はもう普段の穏やかな表情に戻っていたが、その瞳の奥に時折見える冷たい光を、ノエルは忘れることができなかった。
事態は一時終息した。だが、ノエルの心の中に生まれた疑念は、むしろ深く根を張り始めていた。




