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9

 昼の鐘が学園に響き渡った瞬間、教室が一気に解放感に包まれる。


 周囲で教科書を片付ける音が響く中、ノエルは自分の荷物を整理しながら、ちらりと斜め前の席に視線を向けた。


 レイシーがそこにいる。


 午後の陽光が窓から差し込んで、彼女の白い髪を絹糸のように輝かせていた。彼女もまた教科書をカバンに仕舞いながら、時折こちらを見ているのがわかる。


(……クラリッサと接触する時間が迫ってるな)


 今朝の作戦会議のことが頭をよぎる。そろそろ声をかけないと——


「ノエルくん——」


 レイシーが立ち上がり、こちらを見て口を開きかけた。


 ——その時だった。


「レイシーちゃん!」


 明るい声が割り込んできた。


 ノエルは思わず顔を上げる。クラスメイトの女子生徒たちが、弾むような足取りでレイシーの席に向かっていくのが見えた。彼女たちの表情は、期待に満ちている。


 一瞬——本当に一瞬だけ、レイシーの瞳に冷たい光が宿ったような気がした。


(……気のせいか?)


 だがそれはあまりにも短い時間で、すぐに彼女はいつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。


「みなさん、ごきげんよう」


 鈴を転がすような声。女子生徒たちは嬉しそうに頬を染めながら、口々に話しかける。


「一緒にお昼食べない? 今日は食堂に新しいメニューが出るって聞いたの」


「そうそう! レイシーちゃんと一緒だと、きっと美味しく感じるわ」


 レイシーは困ったような笑みを浮かべた。


「ありがとう、とても嬉しいお誘いなのだけど……実は最近少し体調が優れなくて。せっかくのお誘いなのに、ごめんなさい」


 上品に頭を下げながら断る彼女。女子生徒たちは「そうなの? 大丈夫?」と心配そうに声をかけている。


 その光景を見ながら、ノエルは胸の奥に複雑な感情を抱いた。


(……彼女は、こうして友人たちに囲まれている)


 それは素晴らしいことだ。愛されている証拠だ。


 ——だが。


(俺が関わったら……)


 不安が頭をもたげる。


 混血児である自分が彼女と一緒にいたら、周りはどう思うだろう。彼女がこうして築いてきた関係を、自分が壊してしまうのではないか。彼女が孤立してしまうのではないか——


 そう考えた瞬間、ノエルは静かに席を立った。


 荷物を手に取り、レイシーに声をかけることなく教室を出る。廊下で待っていれば、彼女に迷惑をかけることもない。


「……え?」


 扉を閉めかけた時、背後からレイシーの声が聞こえた気がする。

振り返ろうとしてやめると、そのまま廊下に出て扉を静かに閉めた。


 ——すると、教室から慌ただしい足音が聞こえてくる。


「あの、ごめんなさい。ちょっと急用を思い出したから……」


 レイシーの声だった。女子生徒たちに何かを告げているらしい。


 そして——教室の扉が勢いよく開いた。


「待って、ノエルくん!」



* * *


「……なぁ、レイシーの様子、ちょっと変じゃなかったか?」


 レイシーが教室を飛び出していった後、取り巻きの一人が小声で呟いた。


「だよな。なんかあの混血児を追いかけに行ったみたいだったけど……」


 隣にいた別の生徒が頷きながら、不安げに廊下の方へ視線を向ける。そんな会話を聞きながら、取り巻きの一人はふとマルクスの方を見た。


 いつもならこういう話題に真っ先に食いついてくるマルクスが、なぜか何も言わない。


「おい……マルクス? 聞いてるか?」


 声をかけても、反応がない。


 マルクスは机に片肘をついたまま頭を押さえ、虚ろな瞳で宙を見つめている。まるでどこか遠くを見ているような、焦点の合わない目だった。


「……っ、あ……いや。なんでも、ない」


 ようやく絞り出された声は、どこかおかしかった。いつものマルクスらしくない、力のない声。頭を振ろうとする仕草もぎこちなくて、額に当てた手が微かに震えている。


「ほんとに大丈夫かよ……?」


 取り巻きの一人が不安げに問いかける。


 マルクスは短く息を吐いただけで、何も答えなかった。それは彼らへの返事というより、自分自身に向けた——何かを振り払おうとするかのような仕草に見えた。


「……くそ……なんなんだ、これ……」


 そう呟いて、マルクスは深く項垂れる。


 その様子を見て、取り巻きの一人が慌てて教室を見回した。このままじゃまずい。


 誰か、保健委員は——


「あ、おいスコット! 保健委員だろ。マルクスを連れて行ってくれよ」


「え?」


 呼びかけられたスコットが振り返り、目を瞬かせる。事情を察したのか、彼はすぐにマルクスへと近寄ってきた。その表情には、心配そうな色が浮かんでいる。


「マルクス、大丈夫? 立てる?」


「あ、あぁ……」


 マルクスはかろうじて返事をすると、よろめきながら立ち上がった。


 スコットに支えられながら、マルクスは教室を後にする。その背中を見送りながら、取り巻きたちは顔を見合わせた。


 ——なんだったんだ、今の。


 誰もが同じことを思っていたが、誰も口には出さなかった。


* * *


「待って!」


 レイシーの呼びかけに、廊下を歩いていたノエルが振り返る。午後の陽光が窓から差し込む廊下で、二人の視線が交差した。


「なんで先に行っちゃうの?」


 息を弾ませながらも、どこか怒ったような口調でレイシーが問いかける。ノエルは罰が悪そうに視線を逸らした。


「……すまない。廊下で君を待とうと思ったんだ」


 歯切れの悪い口調で答えるノエル。彼は続けて言葉を紡ぐ。


「俺のことは大丈夫だから、他の子たちとご飯を食べてくれ。後で合流しよう」


 そう言って立ち去ろうとするノエルの手首を、レイシーが咄嗟に掴んで引き止めた。その手は僅かに震えている。


「待って。クラリッサお姉様はこの時間に会わないと、次の機会がないの。だから今から一緒に行動してもらえると助かるわ」


「いや、でも……」


「時間もないし、お昼ご飯は後で一緒に食べましょう?ね?」


「けど……」


「ね?」


 必死に言葉を重ねて有無を言わさない雰囲気を出すレイシーの様子に、ノエルは困惑した。なぜ彼女がここまで食い下がるのか理解できない。だが、眉根を寄せて懇願するような彼女の表情を見て、ノエルは結局折れることにした。


「……わかった。じゃあ一緒に行こう」


 その言葉に、レイシーは安堵したように微笑んだ。


「ありがとう。じゃあ行きましょう」


 二人は並んで廊下を歩き始める。しかし、ノエルの心の中では別の心配事が渦巻いていた。


(このままだと、彼女の評判が下がってしまう……)


 そう考えたノエルは、レイシーに気づかれないよう徐々に歩く速度を緩め、距離を開けようとした。一歩、また一歩と、まるで見えない糸がほどけていくように。


「……………」


 沈黙が続く。やがて二人の間には約二メートルの距離ができていた。


「…あー、もう」


 突然、レイシーが立ち止まって苛立たしげに声を上げた。瞳を細めて睨むように振り返る彼女の表情に、ノエルは固まった。


 予想していなかった彼女の反応に、彼は慌てたように目を瞬かせる。だが、レイシーは足早に距離を詰めてきて、迷うことなく彼の手を握った。


「早く行こう」


 周囲の視線も憚らず、自分の手を強く握って引っ張る。ノエルは一瞬彼女の手を振り払おうかと思ったが、そうすることで彼女の善意を無下にしてしまうかもしれないと思い直し、踏みとどまった。


 案の定、レイシーが連れて歩く様子に、すれ違う生徒たちの視線が集まった。ひそひそと囁き合う声も聞こえてくる。レイシーは特に気にする様子を見せなかったが、ノエルは落ち着かない気持ちで周囲を見回した。


「レ、レイシー。手を離してくれ、周りが見てる」


「そうね。でも見てたらなんだっていうの?」


 彼女の言葉に一瞬言葉を詰まらせる。だが、焦りに押されるように続ける。


「なんだって……君が孤立してしまう。表立って俺と関わらない方がいい」


 慌ててそう訴えるノエルに、レイシーは立ち止まって振り返った。いつもの優しげな笑みは消え、真剣な瞳で彼を見据えている。


「……いつも思うけど、どうしてそんなに自分を卑下するの?」


 唐突な質問に、ノエルは驚いたように目を見開いた。なぜ彼女がそんなことを聞くのか理解できず、訝しげに眉根を寄せる。


「どうしてって……君もわかっているだろう。俺は混血児だ。他の人たちと違うから遠巻きにされる。君も俺と関われば同じ目に遭うぞ」

 

 実際、今この瞬間にもすれ違う学生たちが二人を見てひそひそと話している声が聞こえる。ノエルは落ち着かない様子で周囲を見渡したが、レイシーは堂々とした態度で彼を見つめると、その細い指先をノエルの胸にそっと押し当てた。

 


「ねぇ、それが当たり前だと思ってない?」


「………え?」


 ノエルは彼女の問いにわかりやすく動揺した。心がざわつき、何と答えればいいかわからずに沈黙する。


 そんな彼の様子を見ても、レイシーは言葉を続けた。


「……確かにノエルくんの流れている血は私たちと違う。だから周りに偏見を持たれるのも仕方ないのかもしれない。でもね、周りがノエルくんを異質だと判断したとしても、それは不当に扱う理由にはならないのよ」


 凛とした、それでいて断固とした声が廊下に響く。彼女が静かに周囲を見やると、二人を見物していた生徒たちが即座に目を逸らして立ち去った。

 レイシーは再び彼を見上げる。真剣味を帯びたその眼差しを受けて、ノエルは目を逸らすことができなくなった。


「ノエルくんがいつも何を言われても相手の土俵に立たず、言い返さないのは本当に尊敬する。…でもね、だからってその言葉を間に受けて自分を卑下することだけは絶対にしないで」


 断固とした声でそう言うと、彼女は彼の胸に優しく手を当てる。ノエルの心臓の鼓動が手に伝わり、レイシーは瞼を閉じた。まるで彼がこの世に存在していることを確認するかのように。


「ノエルくんの流れている血を、どうか誇りに思って欲しい」


「………っ」


 彼女の言葉に、ノエルは強く胸を打たれた。

 生まれて初めて聞く言葉だった。これまで誰も、彼の血筋を肯定してくれる人はいなかった。養父母は優しく受け入れてくれたが、それでも世間の目を気にして、彼に目立たないよう行動することを求めた。学園の同級生たちは言うまでもない。教師でさえ、時として彼を「特別な事情のある生徒」として扱った。


 だが、目の前の彼女は違った。彼の存在そのものを否定するのではなく、むしろそれを誇りに思えと言っている。


 胸の奥に温かいものが広がっていく。同時に、目頭が熱くなるのを感じた。今まで押し殺してきた感情が、堰を切ったように溢れそうになる。

 言いたいことは山ほどあった。感謝の気持ち、困惑、そして彼女に対する複雑な想い。だが、言葉が喉の奥で詰まって出てこない。


 それでも彼は声を搾り出し、彼女に告げた。


「……ありがとう、レイシー」


 言いたいことの千分の一も表現できていない自分が不甲斐なかった。それでも彼女は彼の表情を読み取り、優しく微笑むとそっと彼の手を取る。


「どういたしまして」


 短くそう言って、彼女は彼の手を優しく握りながらゆっくりと歩き始めた。ノエルはもう彼女の手を振り払おうとは思わなかった。

 彼は彼女について様々なことを聞きたかった。どうしていつも優しくしてくれるのか。どうして自分の欲しい言葉がわかるのか。そして、どうして——

 疑問が次々に浮かんでは消えていく。言葉がまとまらない。彼は結局諦めて、彼女の手の温もりを感じながら、この時間がもう少し長く続いてくれることを密かに祈った。


* * *



 学園の奥にある庭園は、色とりどりの花々が咲き誇る美しい空間だった。その中心で一人の女性が優雅に花の手入れをしている。


 美しく柔らかな金色の髪を耳にかけ、若草色の瞳を細めて花を眺める。


 手に持った銀色のハサミで、傷んだ花弁を丁寧に切り落としていく。その動作は計算されたように美しく、まるで芸術作品を創り上げる職人のようだった。


 風が吹き、切り落とされた花弁が宙を舞った。それを拾おうと振り返ったクラリッサの動きが、突然止まる。彼女は表情を歪め、忌々しげに眉根を寄せて来訪者を睨みつけた。


「ごきげんよう、クラリッサお姉様。今日は風が強いですね」


 鈴を鳴らすような美しい声で、一人の少女が近づいてくる。レイシーだった。天使のような笑みを浮かべながら、編み籠を手にしている。彼女の後ろには、褐色肌の青年が控えめに立っていた。


 クラリッサと呼ばれた少女はあからさまに警戒の色を見せたが、すぐに表情を整えて凛と姿勢を正した。


「何の用です、レイシー。ここは上級生専用の庭園のはずですが」


 冷たい口調で牽制するクラリッサ。だがレイシーは意に介さず、むしろわざとらしく肩を落として見せる。


「あら、お姉様と私は家族でしょう?そんなことを言われたら悲しいわ」


 その演技がかった態度に、クラリッサはさらに眉間に皺を寄せた。


「用がないなら帰りなさい。あなたに割く時間など惜しいわ」


 そう言い放つと、クラリッサは背を向けて花の手入れを再開した。だが、レイシーは相変わらず優しげな笑みを浮かべている。


「……まあ、冷たい。せっかくお祖父様から伝言をお預かりしたのに」


 その言葉に、クラリッサの手が止まった。ゆっくりと振り返り、レイシーを観察するような視線を向ける。


「……伝言?」


 興味を示したクラリッサを確認して、レイシーは笑みを深めた。手に持っていた編み籠を持ち上げて見せる。


「はい……こんな場所もなんですし、一緒に昼食を取りながらお話ししませんか?」


「きっとお姉様も、積もるお話がおありでしょう?」


 明らかな挑発を含んだレイシーの言葉に、クラリッサの若草色の瞳が冷たく光る。

だが結局、クラリッサは花の手入れを中断し、レイシーが指定したガゼボへと足を向けるのだった。


 二人の間に流れる緊張した空気が、午後の庭園に重くのしかかった。

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