第9話 もう一度、生まれる
温かい。
最初に分かったのは、それだけだった。
小さな手が、目の前に差し出された指を握っている。
「大丈夫よ、ハルト」
ハルト。その名前だけは分かる。
(……誰だ?)
そう言ったつもりだった。
「ぁ……あ……」
口から出たのは言葉ではない。頼りない声は、そのまま泣き声へ変わった。
(違う。そうじゃなくて……)
身体を起こそうとしても動かない。腕に力を入れたつもりでも、小さな手が震えるだけ。首さえ思った方向へ向かない。
視界もぼやけていた。光と影。近くにある人の顔。その輪郭さえまだはっきりしない。
ただ、その人の髪だけが朝の光を受けていた。
温かな金色。蜂蜜を溶かしたような長い髪が、柔らかく揺れている。
「よしよし。怖かったの?」
女性は慌てず、ハルトを胸元へ抱き寄せた。
柔らかな布。体温。耳のそばで聞こえる心音。
とくん。とくん。とくん。
(……なんで、言葉が分かるんだ)
知らない女性の声なのに、意味がそのまま頭へ入ってくる。
「大丈夫、大丈夫よ」
女性――アナは、理由など知るはずもなく、ただ優しく背中を撫で続けた。
◇
その手の温度に触れた瞬間。
雨。
冷たい雨。
地面に落ちたスマートフォン。
血の滲んだ白い服。
『ハルト……』
(――セナ)
『私、幸せだったよ』
握った手。
『次も……見つけてね』
親指が触れる。いつものように撫でようとして、途中で止まる。
(セナ……!)
声を出そうとしても、今の身体から出るのは赤ん坊の泣き声だけだった。
「あぁっ……! あぁ……!」
「あらあら。どうしたの?」
記憶は止まらない。
『もう……生きる理由もない』
暗闇。
黒い影。
『やっと、私のものになる』
そして黒を裂いた、眩い光。
光の中にいた女性。
『この魂は、もう十分に苦しんだ』
そこから先は霧がかかったように曖昧だった。
夢だったのか。現実だったのか。
けれど、父も、母も、りずも、セナも忘れてはいなかった。
(俺は……)
死んだ。
そこまで考えた瞬間、胸の奥に耐え難い痛みが戻った。
「うぁぁ……!」
「お腹かしら。それとも、怖い夢でも見たの?」
夢なら、どれほどよかっただろう。
セナの手が離れた感触だけが、あまりにも鮮明だった。
小さな指は無意識にアナの指を強く握った。
アナはその手を外そうとはしなかった。
「大丈夫よ。ゆっくりでいいからね」
知らない人だった。
前世の母ではない。セナでもない。
それなのに、その手は確かに温かかった。
◇
扉の向こうから足音がした。
「まだ泣いているのか」
低い男の声。
「ええ。さっきからずっと」
「あなたが抱いてみる?」
「……俺が?」
「お父さんでしょう?」
一瞬の沈黙。
「それは、そうだが」
大きな腕が近づいてくる。
アナから身体が離れ、次の瞬間には妙に固い腕の中へ収まった。
「あなた、力入りすぎ」
「落としたらどうする」
「そんなに固まっている方が怖いわよ」
「そう言われてもだな……」
男――アルベルトの手は大きかった。
けれど動きは驚くほど慎重だった。
(……父親?)
その言葉が浮かんだ瞬間、前世の父の顔がよぎった。
胸が締めつけられる。
けれど目の前の男を「父さん」と呼ぶ感覚は、まだなかった。
知らない男。
知らない女性。
それなのに二人は、自分を大切そうに見ている。
◇
「ぼくも見たい!」
小さな足音が近づいてきた。
「近すぎる」
アルベルトが言う。
「だって弟だろ?」
「顔が近いと言っている」
「ちょっとだけ」
「あなたもさっきから近いわよ」
アナが笑う。
幼い少年は少し距離を取り、また横から覗き込んだ。
「ちっちゃい」
「赤ちゃんだからな」
「触っていい?」
「優しくね」
アナに言われ、少年は恐る恐る指を伸ばした。
ハルトの手の甲へ、小さな指先が触れる。
「動いた!」
「動くに決まっているだろう」
「ぼくのこと分かるかな」
「まだ分からないんじゃない?」
「じゃあ教える」
少年は胸を張った。
「ぼく、ルーク。お兄ちゃんだから」
(……兄?)
前世にはいなかった存在。
自分はずっと兄だった。りずを守る側だった。
なのに今は、自分より大きな子供が自分を弟と呼んでいる。
あまりに現実感がなくて、ハルトはただ瞬きをした。
◇
「奥様」
落ち着いた女性の声がした。
濃い栗色の髪を低くまとめた女性が、清潔な布を抱えて部屋へ入ってくる。
「そろそろ少しお休みください。昨夜からほとんど眠っていらっしゃらないでしょう」
「ありがとう、クラリス。でも、もう少しだけ」
「そうおっしゃると思いました」
困ったように笑いながら、クラリスは寝具を整える。
その手には、長く働いてきた人らしい小さな荒れがあった。
「旦那様」
今度は扉の近くから、年配の男が静かに声をかけた。
銀の混じった灰色の髪。細身だが、背筋はまっすぐ伸びている。
「東方からの報告が届いております。ただ、急を要するものではございません」
アルベルトが一度だけハルトを見る。
「……後にする」
「承知いたしました」
オズワルドはそれ以上何も言わず、一礼した。
ハルトには、その会話の意味はまだ分からない。
ただ、この家には自分たち家族だけではなく、彼らの日常を支える人たちがいることだけは、ぼんやりと伝わった。
◇
再びアナの腕へ戻される。
抱き上げられた拍子に、視界が少しだけ高くなった。
窓が見えた。
外には朝の光。
その向こうには、見覚えのない景色が広がっている。
石造りの家々。傾斜のある屋根。遠くの高い城壁。その向こうに塔の影。
高い場所にあるこの屋敷からは、街が遠くまで見渡せた。
(……どこだ、ここ)
病院ではない。
少なくとも、自分が知っている日本ではなかった。
視界の隅で、小さな淡い光がふわりと動いた。
火の粉のようなのに落ちない。
風に流されるでもなく、ゆっくり宙を滑り、建物の陰へ消えた。
(今の……何だ?)
確かめようと目を凝らす。
けれど視界はすぐにぼやけた。
眠い。
ひどく眠い。
ここはどこなのか。
なぜ自分は赤ん坊なのか。
あの黒い影は何だったのか。
光の中の女性は誰だったのか。
聞きたいことは山ほどある。
けれど、考えるだけで意識が沈んでいく。
前世の知識は残っている。
失った人たちの記憶も、全部。
何一つ消えてはいなかった。
◇
「眠そうね」
アナの声がした。
ハルトの身体が胸元へ抱き寄せられる。
温かな金髪が頬の近くへ落ちた。
柔らかな香り。
心音。
とくん。とくん。
ハルトの手は、まだアナの指を握っていた。
その感触に、またセナの手が浮かぶ。
雨の中。
途中で止まった親指。
離れていった温度。
目の奥が熱くなる。
けれど、もう大きな声で泣く力も残っていなかった。
「今日はいっぱい泣いたわね」
アナが小さく笑う。
今握っている手は温かい。
失った人が戻ったわけではない。
この女性はセナではない。
前世の母でもない。
この人たちは、失った家族の代わりでもない。
それでも今、自分を抱いている。
生きている自分を。
(俺……)
意識が沈んでいく。
最後に、ひとつだけ思った。
(……俺、生きてるのか)
答えは出なかった。
アナの胸で心音を聞きながら、ハルトはもう一度眠りへ落ちていった。
――第9話「もう一度、生まれる」了。
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これからもハルトたちの物語を、大切に描いていきます。




