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第10話 おかえり

あれから、四年が過ぎた。

 ハルトは四歳になっていた。

 前世の記憶は消えていない。父の顔も、母の声も、りずの笑い方も、雨の中で離れていったセナの手も。

 ただ、この世界で過ごした四年もまた、確かにハルトの中へ積み重なっていた。

「ハルト。廊下を走らないの」

「走ってないよ」

「今、走ろうとしてたでしょう?」

「……まだ走ってない」

 アナが小さく笑う。朝の光を受けた長い金髪が、柔らかく揺れた。

 四年前には知らない人だった。

 今は、アナが好きな花も、アルベルトが考え事をする時に眉間へ皺を寄せることも、ルークが嫌いな野菜を皿の端へ寄せることも知っている。

 それでも心の一番深いところには、まだ開けられない扉があった。

 また大切にしてしまえば、また失うかもしれない。

 そんな傷が、四歳の身体の奥に残っていた。

◇

 廊下の先で、若い使用人がカップを落とした。

「申し訳ありません、奥様!」

 破片を拾おうとした手を、アナが止める。

「待って。手、切ってない?」

「私は大丈夫です」

「本当に?」

「はい」

「じゃあ一緒に片付けましょう。素手では触らないでね」

「奥様、こちらは私が」

少し離れたところから、クラリスが布と箒を持って歩み寄った。

濃い栗色の髪を低くまとめた、アナ付きの侍女。ハルトが物心つく前から、この家にいる人だった。

「ありがとう。でも、この子が怪我をしていないかだけ先に確認したくて」

「承知しました。では破片はこちらで片付けます」

クラリスは若い使用人を責めることなく、まず手を確認させ、それから一緒に床を片付け始めた。

アナの優しさと、クラリスの落ち着いた手際。どちらも、この屋敷では見慣れた光景になっていた。

 責める声はなかった。

 アナはハルトにだけ優しいわけではない。料理人にも庭師にも、屋敷へ来る人にも自然に名前を呼び、笑う。

 ハルトはその姿を見ていた。

「どうしたの?」

「……なんでもない」

 嫌いだから目を逸らしたのではない。

 好きになっていることを認めるのが、少し怖かった。

◇

 別の部屋では、アルベルトが領民の相談を聞いていた。

「北側の水路がまた詰まった?」

「はい。先日の雨で土が流れ込みまして」

「畑への水は?」

「今のところ足りています。ただ、このままだと――」

「分かった。今日中に人を出す。石工にも見てもらえ」

「オズワルド。手配を頼む」

「かしこまりました。水路を見られる者と石工を、昼までに向かわせます」

アルベルトの傍らに控えていたオズワルドが、手元の帳面へ静かに書き留めた。

領民の話を聞くアルベルトと、それを実際の手配へ変えていくオズワルド。四歳のハルトには難しいことも多かったが、この部屋で何かが決まるたび、誰かの暮らしが少しだけ動くことは分かり始めていた。

「ありがとうございます、領主様」

「礼は直ってからでいい。それより南の道は?」

 短く聞き、決める。

 怒鳴らない。偉そうに恩を着せることもない。

 話が終わり、アルベルトは入口のハルトへ気づいた。

「いつからそこにいた」

「ちょっと前」

「難しかったか」

「水が来ないと畑が困るんでしょ?」

 アルベルトの手が止まった。

「……そうだ。よく聞いていたな」

「聞こえただけ」

「そういうことにしておこう」

 この人は、この土地を守っている。

 剣だけではなく、誰かの話を聞き、必要な人を動かし、明日も暮らせるようにする。

 まだ全部は言葉にできなかったが、その姿はハルトの中に残った。

◇

「ハルト、外行こう」

「今?」

「今」

「何するの」

「行けば分かる」

「それ、何も考えてない時の言い方じゃない?」

「考えてる!」

 ルークに引かれて屋敷を出る。

「見て、あれ!」

「虫」

「でかいだろ!」

「虫だね」

「もっと驚けよ」

「兄さんが驚きすぎなんだよ」

 兄さん。

 いつからそう呼ぶようになったのか、はっきりとは覚えていない。

 最初は名前だった。いつの間にか自然に変わっていた。

◇

「待って、兄さん」

「遅いぞ!」

 追いかけようとした。

 頭の中では簡単に越えられる段差だった。

 前世なら。

 けれど今の脚は四歳のものだった。

「あっ」

 つま先が引っかかり、身体が前へ倒れる。

「ぷっ」

 顔を上げると、ルークが口を押さえていた。

「……笑った?」

「だって、すごい転び方したから」

「兄さんが走るからでしょ」

「じゃあ次はゆっくり走る」

 ルークは戻り、当たり前のように手を差し出した。

「ほら」

 ハルトはその手を見る。

 前世では、りずへ手を差し出す側だった。

 少し迷って、その手を取る。

「膝、大丈夫?」

「これくらい平気」

「血出てる」

「ちょっとだけ」

「帰ったら母さんに見てもらおう」

「大丈夫だって」

「だめ」

「なんで」

「俺が兄さんだから」

 あまりにも当然のように言う。

 帰り道、ルークは本当に歩く速度を落とした。少し進んでは振り返る。

(守られるって……こんな感じだったのか)

◇

 屋敷が見えてきた。

 ルークが先に玄関へ駆ける。

「ただいまー!」

 奥からアナが顔を出した。

「おかえり、ルーク。ハルト」

 その瞬間。

 ハルトの足が止まった。

 夕方の玄関。

『おかえり!』

 りずの声。

 母の料理の匂い。

 父の笑い声。

 食卓にいるセナ。

 そして、誰もいなくなった古賀家。

「……っ」

 視界が滲んだ。

 涙が一粒、頬を伝う。

「ハルト?」

 アナの表情が変わった。

「どうしたの?」

「なんでも――」

 声が震える。もう一粒。止まらない。

「ハルト!」

 アナが駆け寄り、膝をついて小さな身体を抱きしめる。

「何か辛いことでもあったの?」

「……ちが……」

「大丈夫よ」

 背中を優しく撫でる。

「ハルト、どこか痛いの?」

 ルークも隣へ来た。

「転んだところ?」

「……違う」

 奥からアルベルトも出てきた。

「どうした」

「分からないの。急に泣き出して」

 アルベルトはハルトの前へしゃがむ。

「無理に話さなくていい。痛いところがあるなら後で見せろ。それ以外なら……落ち着いてからでいい」

 アナの腕。

 ルークの心配そうな顔。

 アルベルトの声。

 三人が、自分のためにここへ集まっている。

 前世の家族を忘れたわけではない。

 セナを忘れたわけでもない。

 それでも、この場所へ帰ってきた自分に、もう一度あの言葉をくれる人がいた。

 ハルトは涙を流したまま、震える声を絞り出した。

「……ただいま」

 アナの腕が、ほんの少しだけ強くなった。

「うん」

 髪を撫でる。

「おかえり、ハルト」

 ハルトは声を上げずに泣いた。

◇

 その日の食卓。

「だからハルト、すごい転び方したんだよ」

「兄さん」

「こうやって、ばーんって」

「言わなくていい」

 アナが膝を見る。

「それでここ擦ったのね」

「……ちょっとだけ」

「帰ってきた時に泣いてたの、それが痛かったんじゃないの?」

「違う」

「じゃあ何だったの?」

「……秘密」

 アナは微笑んだ。

「そう。じゃあ、話したくなったら教えて」

 アルベルトが口を挟む。

「しかし、あの程度の段差で転ぶとは」

「父さんまで言うの?」

 口から自然に出た。

 ハルト自身が一瞬止まる。

 アルベルトもわずかに目を見開いた。

 けれど。

「四歳ならそんなものだ」

 それだけ言って食事を続けた。

「父さんも転ぶ?」

「転ばない」

「絶対?」

「絶対だ」

「この前、庭で木の根に――」

「ルーク」

「母さん見てたよね?」

「見てたわね」

「アナ」

 全員が笑った。

 ハルトも、少しだけ。

 前世とは違う食卓。

 違う父。違う母。違う兄。

 誰かの代わりではない。

 それでも、温かかった。

◇

 夜。

 ハルトは一人、布団の中で目を開けていた。

『おかえり、ハルト』

 何度も思い出す。

 前世の母の声とは違う。

 りずでも、セナでもない。

 アナの声だった。

 父。母。りず。セナ。

 忘れたくない。

 絶対に。

 それなのに、今日の食卓も楽しかった。

 ルークの手は温かかった。

 アナに抱きしめられて安心した。

 アルベルトを自然に父さんと呼んだ。

 涙が静かに流れた。

(幸せになっても……いいのかな)

 前にも一度、同じことをセナへ聞いた。

 あの時は隣にセナがいた。

 今は答えは返ってこない。

 それでも、今日聞いた「おかえり」が胸に残っている。

 この人たちを、家族って呼んでもいいのかな。

 前の家族を愛したまま。

 セナを忘れないまま。

 もう一度、誰かを大切にしてもいいのかな。

 ハルトは布団を握った。

 悲しい。

 嬉しい。

 怖い。

 全部が混ざっていた。

 それでも。

(今度こそ……)

 その先の言葉は、まだ口にしなかった。

 新しい家族の気配を感じながら、ハルトはゆっくりと目を閉じた。

 ――第10話「おかえり」了。



ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!

もし物語を気に入っていただけたら、★評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。


これからもハルトたちの物語を、大切に描いていきます。

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