第11話 妹
その日は、朝から屋敷の空気が落ち着かなかった。
廊下を行き来する使用人たちの足音。
いつもなら仕事部屋にいるはずのアルベルトも、何度も同じ場所を行ったり来たりしている。
「父さん」
「なんだ」
「さっきから同じところ歩いてる」
「……そうか?」
「うん」
「気のせいだ」
どう見ても気のせいではなかった。
少し離れたところでルークが笑いを堪えている。
「父さん、緊張してるんだよ」
「していない」
「してる」
「ルーク」
「はいはい」
ハルトには、何が起きているのか分かっていた。
アナのお腹は、この数か月で大きくなっていた。
新しい家族が生まれる。
新しい――妹が。
その言葉を思うだけで、胸の奥に小さな棘が刺さった。
その時、部屋の扉が開いた。
クラリスが清潔な布と湯の入った器を抱えて出てくる。
「クラリス」
アルベルトがすぐに顔を上げた。
「奥様は?」
「エダ先生がついております。旦那様は、どうかこちらでお待ちください」
「だが――」
「今、中へ入られる方がエダ先生に叱られます」
「……そうか」
アルベルトは素直に引き下がった。
クラリスは小さく微笑み、すぐに部屋へ戻っていった。
いつもなら領民や騎士へ迷いなく指示を出す父が、今は何もできずに待っている。
それだけで、ハルトにも命が生まれるということの重さが少し伝わった。
やがて。
屋敷の奥から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「生まれた!」
ルークが跳ねるように立ち上がった。
アルベルトもすぐに顔を上げる。
ハルトだけが、その場に立ち尽くした。
ほどなくして、扉が開いた。
白から生成りの治癒師服に深い緑を合わせた女性が姿を見せる。落ち着いた栗色の髪を後ろでまとめ、腰には治療用の小さな鞄を下げていた。
領主家付き治癒師、エダ・ミレイ。
「母子ともに問題ありません」
静かな声だった。
けれど、その一言でアルベルトの肩から力が抜けた。
「……アナは」
「疲れています。今は休ませることが最優先です。治癒魔法で負担を和らげましたが、魔法は睡眠の代わりにはなりません」
「分かった」
「少ししたら会えます。それまでは、三人ともここで待っていてください」
アルベルトだけでなくルークまで素直に頷いた。
エダはハルトにも視線を向け、安心させるようにわずかに微笑んだ。
「妹さんは、元気ですよ」
妹。
その言葉と一緒に浮かんだのは、りずだった。
笑っている顔。
『お兄ちゃん』
健康守。
横断歩道。
病院の白い光。
冷たくなった手。
「ハルト?」
ルークが振り返る。
「行こう」
「……うん」
返事はした。
けれど、足はすぐには動かなかった。
◇
部屋の中には、柔らかな光が差していた。
ベッドの上には、少し疲れた顔のアナ。
その腕の中に、小さな赤ん坊がいる。
ベッド脇ではクラリスが水と布を整え、エダがアナの顔色と呼吸を確認していた。
エダの指先に淡い光が灯り、すぐに消える。
「出血も落ち着いています。ですが今日は起き上がりすぎないでください」
「分かってるわ」
「奥様の『分かってる』は、あまり信用しておりません」
クラリスが小さく笑い、アナも困ったように笑った。
治癒魔法があるから何でも平気なのではないらしい。
ハルトは、そのことをなんとなく覚えておいた。
白から生成りの産着。
髪はまだごく薄く、柔らかな頬。
目を開けた時に見える色には、アナと同じ暖かな色の気配があった。
「ハルト」
アナが微笑む。
「あなたの妹よ」
ハルトは入口で止まった。
近づきたい。
でも、怖い。
妹を持つということが。
また兄になるということが。
「どうした?」
ルークが横から顔を覗き込む。
「……なんでもない」
「変なハルト」
ルークは気にせず、赤ん坊のそばへ行った。
「ちっちゃいな」
「あなたもこんなだったのよ」
「俺も?」
「もちろん」
「ハルトも?」
「ハルトも」
アナが笑う。
ハルトはゆっくり一歩だけ近づいた。
その時。
「ハルトも今日から兄ちゃんだな」
ルークが何気なく言った。
兄。
胸の奥で、何かが強く反応した。
兄なら。
妹を守らなければならない。
あの日できなかったことを。
今度こそ――。
「ハルト?」
アナの声で我に返る。
「触ってみる?」
無理に抱かせようとはしなかった。
ハルトは迷った。
それから、小さな手へ人差し指を近づける。
赤ん坊の指が動いた。
きゅっ。
反射的に、ハルトの指を握る。
「……」
「握った!」
ルークが嬉しそうに言う。
ハルトは動けなかった。
あまりにも小さい。
あまりにも弱い。
なのに、その手は確かに自分を掴んでいる。
「……ちいさい」
「あなたもこんなに小さかったのよ」
アナが優しく言った。
ハルトは、握られた指を引かなかった。
赤ん坊の名前は、ミア。
新しい妹だった。
◇
それから数か月。
「母さん!」
アナが振り返る。
「どうしたの?」
「ミア泣いてる」
「今行くわ」
「いつもと泣き方違わない?」
「そう?」
「苦しいんじゃない?」
アナはミアを抱き上げる。
少しあやすと、泣き声は弱くなった。
「お腹がすいただけだと思うわ」
「本当に?」
「たぶんね」
「たぶん?」
ハルトの顔が曇る。
アナは思わず笑った。
「赤ちゃんは、全部理由を教えてくれるわけじゃないのよ」
「でも――」
「心配なら、エダ先生にも見てもらう?」
アナがそう言った時、ちょうど廊下を通りかかったエダが足を止めた。
「呼吸も魔力の流れも安定しています。顔色も悪くありません」
エダはミアへ手を触れ、短く確認してからハルトを見る。
「心配するのは悪いことではありません。でも、泣くことも眠ることも、赤ちゃんには必要な仕事です」
「……仕事?」
「ええ。何でも治すのではなく、元気に育っているかを見守ることも治癒師の仕事なんですよ」
「大丈夫。ちゃんと見てるから」
少し咳をすれば駆けつけた。
寝返りを打てば、落ちないか確認した。
眠っている時間が長いと、呼吸をしているか何度も見た。
ハルト自身にも、やりすぎだという自覚は少しあった。
それでも止められなかった。
前世では。
大丈夫だと思った時に、全部を失った。
◇
「ハルトは本当にミアが心配なのね」
ある日、アナが言った。
「妹だから」
「うん」
アナはハルトの隣へ座る。
「でも、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
ハルトは黙った。
「ハルトがずっと見張ってなくても、この家には私も父さんもルークもいるでしょう?」
「……うん」
「ハルト一人で見てなくていいの」
アナは眠っているミアを見る。
「みんなで見ていればいいのよ」
ハルトは返事をしなかった。
一人で守らなくていい。
その言葉は、どこか不思議だった。
前世ではずっと、自分がやらなければと思っていた。
父と母がいなくなった後も。
りずを失った後も。
セナを失う直前まで。
自分がもっと。
自分がちゃんと。
自分が守れば。
そう思っていた。
今は違う。
アナがいる。
アルベルトがいる。
ルークがいる。
分かっている。
それでも、その考え方を心の奥まで受け入れるには、まだ時間が必要だった。
◇
季節が巡った。
ミアは少しずつ大きくなった。
母に似た栗から蜂蜜色の髪が伸び始め、大きな目で屋敷中を見回す。
そして、歩き始めた。
「ミア、そっちは――」
小さな足が家具へ向かう。
「危ない」
ハルトはすぐに駆け寄り、転ぶ前に抱き止めた。
「また?」
後ろからルークの声。
「何が」
「ハルト、ずっと先に助けてたらミア歩けないぞ」
「転んだら痛いだろ」
「俺たちも転んだだろ」
「それとこれは――」
「同じ」
「違う」
「同じ」
ルークは笑う。
「転んだら起こせばいいんだよ」
その言葉に、ハルトは黙った。
四歳の自分。
段差につまずいた日。
『ほら』
差し出されたルークの手。
転ばないようにすることだけが、守ることではない。
転んだ後に、手を差し出すこともできる。
頭では分かる。
けれど。
「……でも危なかったら止めるから」
「それは止めろ」
「どっちなんだよ」
「本当に危ない時だけ」
「難しい」
「兄ちゃんってそういうもんじゃない?」
ルークは適当に言って、先へ歩いていった。
ハルトは腕の中のミアを見る。
ミアは降ろせと言わんばかりに身体を動かしている。
「……歩きたいの?」
「ん!」
床へ降ろす。
ミアはまた一歩進む。
ぐらつく。
ハルトの手が反射的に動きかける。
止めた。
ミアは自分で踏ん張った。
そして得意そうに笑った。
その笑顔を見て。
ハルトも少しだけ笑った。
◇
さらに時間が過ぎた。
ミアは、りずとはまったく違う子に育っていった。
活発で。
いたずら好きで。
止めても、自分で確かめなければ気が済まない。
「ミア、それ俺の」
ハルトが部屋へ戻ると、ミアが本を抱えていた。
「みあの」
「違う。俺の」
「みあの!」
「名前書いてあるから」
「みあ!」
「名前じゃなくて」
横でルークが笑う。
「取られてるじゃん」
「兄さん、笑ってないで返して」
「自分で取り返せよ」
ハルトが近づく。
ミアは笑いながら逃げた。
「こら!」
廊下を小さな足で走る。
アナの声が飛ぶ。
「ミア! 廊下を走らないの!」
「はーい!」
返事だけはいい。
速度は落ちない。
「全然聞いてない」
ハルトが呆れる。
りずなら、こんな逃げ方はしなかった。
笑い方も違う。
好きなものも。
怒った時の顔も。
甘え方も。
同じ「妹」でも。
全然違う。
その違いを知るたびに、胸の奥の何かが少しずつほどけていった。
◇
ある日の午後。
ミアがハルトの後ろをついて歩いていた。
「何?」
「……」
「ずっとついてきてるけど」
「……に」
「に?」
「に……さま」
ハルトの足が止まった。
「え?」
ミアが嬉しそうに笑う。
「にいさま!」
今度は少しはっきり聞こえた。
ハルトが固まる。
ルークがすぐ横から割り込んできた。
「俺は?」
ミアがルークを見る。
「るーく」
「なんでだよ!」
ハルトは思わず吹き出した。
「兄さん、名前覚えてもらってるじゃん」
「そういう問題じゃない! 俺も兄さんだろ!」
「るーく!」
「ほら!」
アナまで笑っている。
「ルーク、もう少し待ってあげたら?」
「ハルトだけずるい!」
「知らないよ」
ミアは何が面白いのか分からないまま、ハルトの服を掴んで笑っていた。
その笑顔を見ながら。
ハルトの胸には、りずの姿も浮かんでいた。
けれど以前とは違った。
重なって見えるのではない。
二人が違うことを、ちゃんと感じられた。
◇
夜。
遊び疲れたミアは、ハルトのそばで眠っていた。
寝顔を見つめる。
りずを思い出す。
りずは、もっと違う笑い方をした。
好きだったものも違う。
困った時の顔も。
自分の呼び方も。
何もかも同じではない。
(りずじゃない)
その言葉を思うことに、以前なら罪悪感があったかもしれない。
でも今は違う。
りずを否定しているわけではない。
忘れるわけでもない。
りずは、りず。
大切な妹だった。
そして。
(……ミアだ)
目の前にいるのは。
誰かの代わりではない。
ミア。
活発で。
いたずら好きで。
ハルトの物を勝手に持っていって。
止めても自分でやりたがって。
兄を「にいさま」と呼んで笑う。
この世界で出会った、自分の妹。
眠っていたミアの手が動いた。
小さな指が、ハルトの指を掴む。
生まれた日に握られた時より、少し大きくなった手。
ハルトはその手を見つめた。
(この子が……)
指を握り返す。
(この子が、笑っていられるように)
絶対に。
何があっても。
そんな言葉までは、まだ口にしなかった。
ただ。
今は、この温かな手を離したくないと思った。
ハルトは眠るミアのそばで、静かに笑った。
――第11話「妹」了。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
まだ始まったばかりの物語ですが、こうして読んでいただけることが何よりの励みになっています。
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これからもハルトたちの物語を、大切に描いていきます。




