第8話 奪われた未来
その朝は、何も特別ではなかった。
「卵、焦げるよ」
「まだ焦げてない」
「焦げる直前」
「一番うまいところ」
「それ毎回言うよね」
キッチンに立つハルトの背中へ、セナが呆れた声を投げる。
二人分の朝食。二本の歯ブラシ。椅子の背にはセナの上着。端には医学書。
棚には父と母の写真。その隣には、りずが真ん中で笑う三人の写真。
「今日、遅い?」
「実習次第かな」
「帰ったら何食べる?」
「考えといて」
「また俺?」
「ハルトの方が上手いし」
二人で笑った。
ただの朝だった。
だから、その時間を特別なものとして覚えておこうとは思わなかった。
◇
玄関でセナが靴を履く。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
扉へ手を伸ばしたセナが、ふと止まった。
二歩戻り、ハルトの手を取る。
握る。
親指で、一度だけ撫でる。
「……何」
「なんとなく」
「最近それ多くない?」
「そう?」
「帰ったら飯決めろよ」
「はーい」
セナは玄関を出た。
扉が閉まる。
いつもと同じ。
ハルトはそう思って、自分の一日へ戻った。
◇
違和感を覚えたのは、夕方だった。
セナから連絡がない。
実習が長引く日はある。けれど昼に送ったメッセージにも既読がついていなかった。
『今日何時くらい?』
もう一度送る。
返事はない。
電話をかける。
呼び出し音だけが続いた。
「……セナ?」
『誰かに見られてる気がする』
海から帰った夜の言葉が蘇る。
理屈では、まだ何も起きたと決まったわけではない。
けれど身体は、もう立ち上がっていた。
◇
まずセナの大学へ確認した。
実習は予定通り終わり、セナはすでに出たという。
ハルトは普段の帰宅経路を逆に辿った。
駅。大通り。コンビニ。交差点。
道行く人へ写真を見せる。
「この人、見ませんでしたか」
何人目かの女性が、少し考えてから答えた。
「似た人なら……あっちへ行ったような」
「一人でした?」
「たぶん……誰かいたような気もするんですけど。すみません、よく覚えてなくて」
その言葉に背筋が冷えた。
りずの事件と同じだった。
誰かがいた。
誰もいなかった。
「ありがとうございます」
走る。
いつもの道から外れた先。
人通りの少ない工事中の建物付近。
その時、頬に冷たいものが落ちた。ひとつ、ふたつ。見上げる間もなく、灰色の空から雨粒が増えていく。
やがて乾いていたアスファルトを濃く染めるほどの雨になった。
ハルトは足を止めない。濡れた前髪が額に張りついても、ただセナの名前だけを頭の中で繰り返しながら先へ進んだ。
地面に、小さな髪留めが落ちていた。
「……セナ」
さらに先には、ひびの入ったスマートフォン。
画面には雨粒が弾け、ひびの隙間へ水が入り込んでいた。
ハルトは走った。
◇
最初に見えたのは白い服だった。
次に、赤。
「セナ!」
駆け寄る。
セナが倒れていた。
服には血が滲み、呼吸は浅い。
「セナ! 分かるか!」
瞼がわずかに動く。
ハルトは震える手で救急へ連絡した。
場所を伝える。状態を伝える。
電話を終え、できる範囲で出血を抑えようとする。
「大丈夫」
口から出た。
「大丈夫。今、救急車呼んだから」
言った瞬間、自分で分かった。
何の根拠もない。
父と母の事故の夜。
りずへ言った言葉。
『大丈夫』
大丈夫ではなかった。
「ハル……ト……」
「喋るな」
セナの手を握る。
「いいから、今は喋るな。助けるから」
手が冷たい。
「頼むから……今度こそ……」
雨に冷やされたせいだ。そう思いたかった。ハルトは両手で包むように、その手を握った。
◇
セナの瞳が、ゆっくりハルトを捉えた。
「ハルト……」
「喋るなって」
「……私、幸せだったよ」
「やめろ」
「みんなと……ご飯食べて」
「やめろ」
「りずちゃんと……笑って……ハルトと……」
「やめろって!」
セナはほんの少しだけ笑った。
「旅行……行きたかったな」
「行く」
ハルトは即答した。
「行く。行くから。医者になって、俺も警察官になって……家も決めて……だから――」
セナの指が動いた。
ハルトの手を握ろうとする。
「次も……見つけてね」
親指が、いつもの場所へ触れた。
一度、撫でようとして。
途中で止まった。
力が抜ける。
「……セナ?」
返事はない。
「セナ」
手を握り直す。
「おい……」
遠くから救急車の音が聞こえ始めた。
「セナーー!!」
ハルトは彼女を抱きしめた。
サイレンは激しい雨音の向こうから、少しずつ近づいてきた。
「起きろよ……! 見つけたら隣にいるって言っただろ……!」
名前を呼んだ。
何度も。
血で服が汚れることなど、どうでもよかった。
「セナ……!」
「ああああああっ――!」
声にならないはずの痛みが、喉を裂くような叫びになって雨の中へ消えていった。ハルトはセナを抱きしめたまま、子供のように泣き続けた。雨なのか涙なのかも、もう分からなかった。
ようやくもう一度手にした未来が、腕の中で終わっていた。
◇
少し離れた暗がり。
人の形をした何かが立っていた。
成熟した女の輪郭。
街灯が届いているはずなのに、顔だけが見えない。
唇が、ゆっくり笑う。
「これで、ようやく――」
風が吹いた。
次の瞬間、そこには誰もいなかった。
◇
事件には、人間の加害者がいた。
雨の幕が風に煽られ、女の輪郭を一瞬だけ歪ませた。
捜査線上に浮かんだ人物は、セナと深い関係のある人間ではなかった。
接点は薄い。
それなのに事件直前の行動だけが異様だった。
本人は、なぜそこまでセナへ執着したのかをうまく説明できなかった。
記憶にもところどころ穴がある。
目撃者の話も噛み合わない。
監視映像にも短い空白が残った。
警察は人間の事件として捜査を進めた。
それは間違いではなかった。
ただ、その人間の感情を誰かが外側から歪め、膨らませていたことを、この時の誰も知らなかった。
◇
葬儀が終わった。
古賀家へ帰る。
誰もいない。
父と母の写真。
りずの写真。
健康守。
そして、セナのもの。
洗面所には歯ブラシ。
棚には医学書。
冷蔵庫には、セナがよく飲んでいたもの。
クローゼットには着替え。
玄関には靴。
昨日まで生活だったものが、持ち主のいない物になった。
ハルトは玄関に座ったまま、長い時間動けなかった。
待っていれば。
『入るね』
あの声が聞こえる気がした。
聞こえない。
明日も。
明後日も。
もう二度と聞こえない。
スマートフォンには海辺で笑うセナ。
未来の家。
旅行。
医師になったセナ。
警察官になった自分。
何一つ、そこにはなかった。
◇
日が変わっても、ハルトはほとんど動かなかった。
父と母を失った時には、りずがいた。
りずを失った時には、セナがいた。
立てなくてもいいと言ってくれた。
立てるまで隣にいると言ってくれた。
その人も、もういない。
「父さんも、母さんも……」
写真を見る。
「りずも……」
健康守を見る。
「セナも……」
手の中には、誰の温度もない。
守りたかった。
幸せになってもいいと思えた。
もう一度、生きてもいいと思えた。
その未来ごと奪われた。
ハルトは目を閉じた。
「もう……生きる理由もない」
それから先の時間を、未来として思い描けなかった。
生きることを手放そうとするところまで、心は沈んでいた。
――暗転。
◇
音がなかった。
光もない。
上も下もない。
自分がどこにいるのかも分からない。
父の笑顔。
母の声。
りず。
セナ。
全部が遠ざかる。
黒いものが近づいてきた。
影。
霧。
あるいは手。
形を定めない何かが、ハルトを包み込む。
「やっと」
女の声。
「やっと、私のものになる」
黒が閉じていく。
ハルトは抵抗しなかった。
抵抗する理由を、もう持っていなかった。
◇
その瞬間。
白い光が、黒を裂いた。
「……この魂は、もう十分に苦しんだ」
別の声。
男とも女とも分からない。
「返しなさい」
女の声が低くなる。
「この者は、お前のものではない」
光が強くなる。
ハルトには何が起きているのか分からなかった。
ただ。
父が笑っていた。
母が笑っていた。
りずが笑っていた。
セナが笑っていた。
『また隣にいる』
声がした気がした。
「次の生では――」
眩い光に包まれた女性の声が最後に届く。
「どうか、生きたいと願える日々を」
黒い影が遠ざかる。
意識が、白へ溶けた。
◇
泣き声がした。
自分の声だった。
けれど、声が違う。
身体も違う。
ぼやけた光。
木の天井。
石の壁。
窓から差し込む柔らかな朝日。
「大丈夫よ」
知らない女性の声。
温かい。
「大丈夫よ、ハルト」
その名前だけが、なぜか胸の奥へ落ちた。
誰かの指が目の前へ差し出される。
小さな手が、反射的にそれを握った。
温かかった。
離れてしまった手とは違う。
新しい命を、この世界へつなぎ止める手。
ハルトは泣きながら、その指を強く握った。
何も知らないまま。
すべてを失った魂のまま。
もう一度。
生まれた。
――第8話「奪われた未来」了。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
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これからもハルトたちの物語を、大切に描いていきます。




