第7話 もう一度、幸せに
あの朝から、数週間が過ぎた。
何かが劇的に変わったわけではない。目を覚ました瞬間だけ、りずがまだ隣の部屋にいるような気がして、そのあとで全部を思い出す朝もあった。
それでも、カーテンは少しずつ開くようになった。シャワーを浴びる日が増え、大学からの連絡にも短い返事を返した。
「今日は少し食べられそう?」
「……分からない」
「じゃあ、分からないまま食べよ」
全部は食べられない。それでもセナは残した量を見て何も言わなかった。
「毎日来なくてもいいぞ」
「うん」
「……来るなって意味じゃない」
セナは少し目を丸くして、それから笑った。
「分かってる」
まだ笑い返せなかった。でも、目を逸らさずにいられた。
◇
初めて一人で外へ出た日、ハルトは玄関で長く立ち止まった。
「一緒に行こうか?」
「……一人で行ってみる」
「うん。無理だったら?」
「帰ってくる」
「それでいいと思う」
大学まで行けたわけではない。近所を歩き、飲み物を一本買って帰っただけだった。
「ただいま」
「おかえり」
セナの声が返る。
胸は痛んだ。それでも、その痛みから逃げずに靴を脱いだ。
◇
さらに少し経った日。
ハルトは、りずの部屋の前に立った。手には健康守。
セナは廊下の少し離れた場所にいた。何も言わず、ついてこようともしない。
ハルトは扉を開けた。
机。教科書。読みかけの本。椅子にかかった上着。使いかけの文房具。
何も特別なものはない。だからこそ、今にもりずが帰ってきそうだった。
「……片付けてないじゃん」
返事はない。
「ほんと……」
続きを言えなかった。
ベッドの端に座り、健康守を握る。涙が流れた。
その日、部屋は片付けなかった。
扉を開けられた。中へ入れた。それだけで十分だった。
部屋を出ると、セナはまだ待っていた。
「……待ってたの?」
「うん」
「長かっただろ」
「別に」
「ありがとう」
「うん」
◇
数か月後。
ハルトは大学へ少しずつ戻り、アルバイトも短い時間から再開した。警察官採用試験の参考書も、また開くようになった。
できない日もある。それでも翌日になれば、一ページだけ開く。
警察からは、りずの事件について時折連絡が来た。第三者がいた可能性。食い違う証言。事故直前の映像ノイズ。
捜査は続いている。犯人はまだ見つかっていない。
ハルトは忘れてはいない。
ただ、それだけを生きる理由にはしなかった。
◇
ある休日、二人は花を持って墓地へ向かった。
父と母。そして、りず。
以前なら浮かぶ言葉は一つだけだった。
ごめん。
守れなくてごめん。
生きていてごめん。
「父さん。母さん」
少し間を置く。
「りず」
風が吹いた。
「……また来る」
それだけだった。
大丈夫だとは言えない。もう悲しくないとも言えない。
でも、次に来る自分を想像することはできた。
墓地を出たあと、セナの手が触れた。握る。親指で、一度だけ撫でる。
ハルトは、その手を握り返した。
◇
季節が変わった。
「玉ねぎある?」
「ない」
「昨日買うって言ってなかった?」
「言った」
「買った?」
「忘れた」
「じゃあ何でそんな堂々としてるの」
「今から買えば結果は同じ」
「過程が違う」
「医者って細かいな」
「まだ医者じゃない」
「じゃあ未来の医者」
「適当」
二人で笑う。
突然の雨に降られた。料理の味付けで揉めた。セナの試験期間には、今度はハルトが食事を作った。
「食べろ」
「あと十ページ」
「それ昨日も言った」
「今日は本当に十ページ」
「信用ないな」
「誰のせい?」
「お前」
「ひど」
机で眠ったセナの教材を閉じ、毛布をかける。
以前はセナがハルトへしていたことを、今度はハルトが返していた。
守るという言葉を使わなくても、できることはたくさんあった。
◇
セナが古賀家へ泊まる日は少しずつ増えた。
着替えが置かれ、洗面所には二人分の歯ブラシ。冷蔵庫にはセナの好きな飲み物。玄関には彼女の靴。
誰かが決めたわけではない。それでも二人は、少しずつ同じ生活をするようになっていた。
りずの写真も、父と母の写真もそのままだった。
過去を消して始めた生活ではない。
失った人たちも含めて、今の二人の生活だった。
◇
「またシフト増やしたでしょ」
「一日だけ」
「その一日を何回言った?」
「……三回くらい」
「五回」
「数えてたの?」
「数えたくなくても分かる」
「でも試験もあるし――」
「だから?」
以前なら「俺がやれば済む」と言っていた。
ハルトは口を開きかけて、止めた。
「……減らす」
セナが目を丸くする。
「何その顔」
「いや」
「俺だって学習するからな」
「一年かかったけど」
「うるさい」
二人とも笑った。
普通に喧嘩して、普通に仲直りできる。
そんな日常が戻っていた。
◇
悪い日はなくならなかった。
夜の散歩中、救急車が横を通った。
サイレン。赤い光。
ハルトの足が止まる。
白い病院の廊下。りずの冷たい手。
セナは何も言わず、先へも行かなかった。
やがてハルトが一歩を踏み出す。セナも同じ速度で歩く。
「……悪い」
「何が?」
「止まった」
「私も止まったけど」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ何?」
「……忘れた」
「適当」
その顔がおかしくて、ハルトは小さく笑った。
セナが驚いた顔をする。
「何」
「なんでもない」
「今、変な顔しただろ」
「してない」
「した」
今度は二人とも笑った。
◇
りずがいなくなってから、もうすぐ一年。
二人は海へ来ていた。
夕暮れ。波の音。遠くの街の灯り。
「なあ」
「ん?」
「俺、幸せになってもいいのかな」
セナはすぐには答えなかった。
ハルトの手を取り、親指で一度だけ撫でる。
「りずちゃんも、お父さんも、お母さんも……ハルトが苦しみ続けるために、一緒にいたんじゃないと思う」
少しの間。
「私は、そう思うよ」
「……そっか」
「幸せになったからって、いなかったことになるわけでもない」
「うん」
ハルトは手の中の温度を感じた。
セナは、立てない時も隣にいた。
今は自分もまた、彼女の隣を歩ける。
この人を大切にしたい。
恐怖からではなく、失うことだけを考えてでもなく。
セナが隣で笑っていられる未来を、自分も一緒に守りたい。
ハルトはそう決めた。
◇
「警察官になれたら、どこ住む?」
「急だな」
「未来の話」
「勤務先次第だろ」
「夢がない」
「現実的って言って」
「じゃあ私が医者になったら?」
「夜勤あるだろ」
「あるね」
「その頃も俺が飯作るの?」
「私の勤務次第」
「最初からやる気ないだろ」
「ハルトの方が上手いし」
「認めるんだ」
「適材適所」
「便利な言葉だな」
「旅行も行きたい」
「どこ」
「まだ決めてない」
「それ旅行行きたいだけじゃん」
「いいじゃん」
セナが笑う。
「あと、新しい家にしても写真は持っていくからね。お父さんたちのも。りずちゃんのも」
「……うん」
過去を置いていく未来ではない。
一緒に連れていく未来。
それなら、想像してもいい気がした。
◇
空が暗くなり始めた頃、セナが水平線を見ながら言った。
「もし次の人生なんてものがあるなら、その時も見つけてね」
「何それ」
「なんとなく」
「急に怖いこと言うなよ」
「怖くないでしょ」
「見つけたら?」
セナは少し考えた。
「また隣にいる」
「また?」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
「じゃあ決まり」
「何が決まったんだよ」
「次の人生」
「勝手に決めるな」
「ハルトが見つけるんだから、頑張って」
「俺任せ?」
「見つけてもらう側だから」
「ずる」
強い海風が吹き、セナの髪が顔へかかった。
「ちょ、見えない」
「何してんだよ」
「風に言って!」
その姿がおかしくて、ハルトは笑った。
声が出た。
腹の底から、何も考えずに。
セナが一瞬驚き、それから一緒に笑った。
悲しみが消えたからではない。
失った人を忘れたからでもない。
それでも、今ここにある幸せを、幸せだと思えた。
◇
帰り道。
セナの足が、不意に止まった。
「……また」
「何が?」
「誰かに見られてる気がする」
ハルトの表情から笑みが消えた。
あの日の夜。
そして、りずの事件。
「どこから?」
「分からない」
「いつから?」
「今……たぶん」
ハルトは周囲を見る。
人影。街灯。停まった車。暗い路地。
誰かがこちらを見ている様子はない。
それでも今回は「気のせい」とは言えなかった。
「セナ」
「うん」
「今日は一人で帰るな」
セナがハルトを見る。
「一緒に帰ろう」
「……うん」
ハルトはセナの手を取った。
守りたい。
今度こそ。
胸の奥に、理由の分からない嫌な感覚が残った。
◇
遠い暗闇。
街の灯りさえ届かない場所。
黒とも深い紫ともつかない闇の中で、女の唇だけが浮かんでいた。
ゆっくりと。
楽しむように。
その唇が、薄く笑った。
顔は見えない。
声もない。
ただ、その視線だけが二人の背中を追っていた。
ハルトはまだ知らない。
ようやくもう一度手にした未来へ、何かが近づいていることを。
――第7話「もう一度、幸せに」了。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
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これからもハルトたちの物語を、大切に描いていきます。




