第6話 立てなくても
葬儀が終わっても、何も始まらなかった。
朝になったのか、昼なのか。
ハルトには、もうよく分からなかった。
古賀家のカーテンは閉じたままだった。
外を走る車の音。
遠くで鳴る子供の声。
冷蔵庫の低い駆動音。
世界は何も変わらず動いている。
それだけが、ひどく不自然だった。
ハルトはソファの脇の床に座っていた。
食卓には座らない。
あそこには、いろいろなものが残りすぎていた。
父。
母。
りず。
そしてセナ。
五人で笑った夜。
三人で作った少し味の濃い夕食。
二十歳の誕生日。
スマートフォンを開けば、昨日まで三人だった写真が残っている。
りずが中央。
自分とセナが左右。
笑っている。
そのスマートフォンの横には、小さな健康守が置かれていた。
りずが、自分のために買ったもの。
ハルトはそれを手に取る。
何度見ても、何も変わらない。
りずの部屋の扉は閉じたままだった。
葬儀から帰ってきてから、一度も開けていない。
開ければ、そこにりずがいる気がした。
開ければ、いないことをもう一度知る気もした。
だから開けられなかった。
◇
玄関の鍵が開く音がした。
「入るね」
セナだった。
返事はしなかった。
彼女は靴を脱ぎ、居間へ入ってくる。
手にはコンビニの袋と、小さな保温容器。
ハルトの顔を見ても、「大丈夫?」とは聞かなかった。
テーブルの端へ飲み物と食べ物を置く。
それから、ハルトの正面ではなく、少し離れた床へ座った。
何も言わない。
ハルトも何も言わなかった。
数分。
あるいはもっと長い時間。
時計の秒針だけが聞こえた。
「……帰ってくれ」
ようやくハルトが言った。
「うん」
セナは静かに答えた。
それでも立ち上がらない。
ハルトが顔を上げる。
セナは自分の鞄から本を一冊取り出した。
「帰ってほしくなったら、もう一回言って」
「今言っただろ」
「うん」
「じゃあ帰れよ」
「……うん」
セナはページを開いた。
ハルトは睨むように彼女を見た。
けれど、それ以上言う力がなかった。
視線を落とす。
また時計の音だけが残った。
◇
セナは何も話さなかった。
本を数ページ読む。
途中で立ち上がり、流しに残っていたコップを洗う。
洗濯機の中に放置されていた服を見つけると、それを干す。
また戻ってきて、少し離れた場所へ座る。
ハルトを励まさない。
りずの話もしない。
大学の話もしない。
未来の話もしない。
ただ、そこにいた。
「……何か言えよ」
ハルトが呟いた。
セナは本から顔を上げる。
「何を?」
「知らない」
「……私も分からない」
セナは少し考えた。
「今は、何を言っても違う気がする」
「じゃあ、なんでいるんだよ」
セナは答えなかった。
また本へ目を落とした。
その横顔を見て、ハルトはふと思い出した。
二十歳の誕生日。
店の外で泣いていた小さな女の子。
セナはあの子にも何も言わなかった。
隣にしゃがんでいた。
ただ、それだけだった。
あの時は、それが何なのか深く考えもしなかった。
今、自分が同じことをされていた。
◇
次の日も、セナは来た。
「入るね」
同じ時間。
食べ物を置く。
前の日に置いたものがほとんど減っていなくても、何も言わない。
ゴミをまとめる。
洗濯物を畳む。
「大学から連絡来てたよ」
「……」
「返事はしなくていい。連絡来てたことだけ言っとくね」
勝手に休学の連絡をすることも、仕事を辞めさせることもしなかった。
決めるのはハルトだから。
「また明日」
帰る時、そう言った。
ハルトは返事をしなかった。
その次の日も来た。
また次の日も。
セナ自身も大学へ行っていた。
医学部の課題を抱え、講義を受け、時には疲れた顔のまま古賀家へ来る。
それでも同じ時間になると、玄関から声がした。
「入るね」
ハルトはいつしか、その声が聞こえる時間だけは分かるようになっていた。
朝も夜も曖昧なのに。
セナが来る時間だけは、分かった。
◇
何日目だったのか。
ハルトは覚えていなかった。
その日もセナは食事を置き、散らかった部屋を少しだけ整えた。
そして窓の前に立った。
カーテンの端へ手をかける。
ほんの少しだけ。
光が細い線になって、暗い部屋へ差し込んだ。
「やめろ」
ハルトの声が飛んだ。
セナの手が止まる。
「……ごめん」
すぐに閉じようとした。
「もういいって」
「うん」
「毎日来なくていい」
「うん」
その返事が、なぜか腹立たしかった。
「うん、うんって……」
セナが振り返る。
「だったら帰れよ」
声が強くなる。
「何も言わないで、毎日来て……飯置いて、片付けて……」
自分でも、何に怒っているのか分からない。
セナが悪いわけではない。
分かっている。
それでも止まらなかった。
「……お前に何が分かるんだよ」
セナの表情が揺れた。
ハルトは気づいた。
傷つけた。
それでも口を閉じられなかった。
「俺が守るって言ったんだ」
健康守を握る。
「父さんと母さんが死んだ時、俺が守るって……あいつだけは絶対にって」
声が震える。
「なのに俺が一人で行かせた」
「ハルト――」
「俺が一緒にいればよかった!」
声が部屋に響いた。
「俺がもっとちゃんとしてれば……もっと見てれば……!」
息が苦しくなる。
「守れなかったんだよ」
ハルトは俯いた。
「父さんも、母さんも……りずも」
指の間から、健康守の紐が見える。
「俺が大事にしたやつ、みんな……」
その先は言えなかった。
セナは黙っていた。
ハルトは拳を握った。
「だから……お前に何が分かるんだよ」
◇
長い沈黙があった。
セナは泣きそうな顔をしていた。
けれど、「私だって辛い」とは言わなかった。
自分もりずを大切に思っていたことを、今ここで競うように口にもしなかった。
「……分からないよ」
ハルトが顔を上げた。
予想していなかった答えだった。
「りずちゃんを失ったハルトの痛みは、私には全部分からない」
セナの声も少し震えていた。
「分かったふりもしたくない」
目に涙が溜まっている。
それでもハルトから目を逸らさなかった。
「ハルトが今、何を考えてるのかも。どれくらい苦しいのかも。全部は分からない」
「じゃあ……」
「でも」
セナが静かに遮った。
「一人にしたくない」
ハルトは何も言えなかった。
「何を言えば楽になるのかも分からない」
一歩だけ近づく。
「どうしたら元に戻れるのかも分からない」
もう一歩。
「だから、元に戻そうとはしない」
セナはハルトの前で止まった。
「今は立てなくてもいいから」
その言葉は、命令でも励ましでもなかった。
「立てるまで、私が隣にいるよ」
ハルトの顔が歪んだ。
「……いつまでだよ」
掠れた声。
セナは少しだけ笑った。
「立てるまで」
「それじゃ答えになってないだろ」
「じゃあ、答えになるまで」
昔と同じような、少しだけ困った笑い方だった。
ハルトは俯いた。
一滴だけ、床に落ちた。
声を上げる涙ではなかった。
もう泣く力さえ残っていない人間の、静かな涙だった。
◇
セナはすぐには触れなかった。
ハルトの隣へ座る。
少し待つ。
ハルトが離れないことを確かめてから、その手へ自分の手を重ねた。
握る。
親指で、一度だけ撫でる。
何度も繰り返された仕草。
両親を失った夜も。
何でもない日常の中でも。
そして今も。
ハルトは手を振りほどかなかった。
何も言わなかった。
セナも何も言わない。
ただ二人で、暗い部屋に座っていた。
◇
夜になった。
セナは立ち上がった。
「今日は帰るね」
テーブルには、小さな容器に入ったスープが置かれている。
「食べなくてもいいから」
セナは言いかけて、少し考えた。
「……置いとくね」
押しつけない。
けれど持ち帰りもしない。
玄関へ向かう。
「また明日」
返事はなかった。
扉が閉まる。
家が静かになった。
ハルトはしばらく動かなかった。
りずの部屋の扉。
三人の写真。
健康守。
そして、テーブルの上のスープ。
どれくらい経ったのか。
ハルトはようやく手を伸ばした。
蓋を開ける。
もう温かくはなかった。
スプーンですくう。
口へ運ぶ。
一口。
味はよく分からなかった。
美味しいとも思わなかった。
もう一口飲む気にもなれなかった。
それでも。
その一口は、確かに喉を通った。
◇
いつの間にか、夜が終わろうとしていた。
閉じたカーテンの隙間から、細い光が差し込む。
昨日までなら、その光さえ嫌だった。
ハルトは動かなかった。
カーテンも開けない。
立ち上がりもしない。
ただ、差し込んだ光を見ていた。
手の届く場所には、りずの健康守。
スマートフォンには、三人の写真。
失ったものは何一つ戻っていない。
痛みも消えていない。
明日を生きたいと思えたわけでもない。
それでも。
立ち上がれなくても、朝は来た。
ハルトは、その朝をまだ生きていた。
――第6話「立てなくても」了。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
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これからもハルトたちの物語を、大切に描いていきます。




