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第5話 また

信号が青へ変わった。

 りずは鞄の中のお守りへもう一度だけ触れ、一歩を踏み出した。

 その背後で、靴音がした。

 近い。

 そう思って振り返るより早く、背中に衝撃が走った。

「――え?」

 身体が前へ傾く。踏み出したはずの足が地面を捉えない。

 視界の端で白い横断歩道が流れた。

 鞄が肩から外れる。中から、小さな袋が転がった。

 誰かが叫んだ。

 甲高いブレーキ音。

 タイヤが路面を擦る音。

 りずが最後に見たのは、青く光る歩行者信号だった。

◇

 交差点は、数分もしないうちに人で埋まった。

 救急車の赤い光が建物の壁を何度も染める。

 路上には鞄が落ちていた。少し離れた場所に、神社の名が入った小さな袋。

「後ろに誰かいました」

 警察官へ話す女性の声が震えていた。

「押したんです。たぶん……」

「いや、あの子一人だったと思いますよ」

 別の男性が首を振る。

「女の人がいたような……黒い服の」

「男じゃなかった?」

 証言は噛み合わない。

 誰も嘘をついているようには見えなかった。それなのに、誰一人として同じものを見ていなかった。

 救急隊員がりずを運び込む。扉が閉まる。

 サイレンが鳴り、救急車は走り出した。

 横断歩道の信号だけが、何事もなかったように点滅していた。

◇

 ハルトのスマートフォンが鳴った。

 登録されていない番号。

 画面を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。

 一年前の夜。

 父と母が帰ってこなかった夜。

 同じように、知らない番号から電話が来た。

 違う。偶然だ。

 そう思いながら通話ボタンを押す。

「……はい」

「古賀りずさんのご家族の方でしょうか」

 その名前を聞いた瞬間、ハルトは立ち上がっていた。

「はい。兄です」

「りずさんが交通事故に遭われまして、現在――」

 最後まで聞けなかった。

「病院はどこですか」

 病院名を聞く。鞄を掴む。

 机の上の物が床へ落ちたが、拾わなかった。

 廊下へ出ながら、セナへ短いメッセージだけを送った。

『りずが事故に遭った。病院行く』

 送信。

 それだけだった。

◇

 走った。

 駅まで。階段を。人の間を。

 信号が赤になるたび、胸の中で何かが暴れた。

「早く……」

 意味もなく呟く。

 大丈夫。

 そう言おうとして、やめた。

『大丈夫だよね?』

『……大丈夫』

 一年前、りずへそう言った。

 あの夜、大丈夫ではなかった。

 父も母も帰ってこなかった。

 だから今度は、その言葉を口にできなかった。

 代わりに昨日の景色が浮かぶ。

 三人で歩いた街。ケーキ。写真。中央で笑うりず。

『今日楽しかった』

 ほんの昨日だ。

 昨日まで、何もなかった。

 昨日は笑っていた。

「頼むから……」

 何に頼んでいるのか、自分でも分からなかった。

◇

 病院へ着いた。

 自動ドアが開く。

 白い床。白い壁。消毒液の匂い。

 ハルトの足が止まった。

 一年前と同じだった。

 同じではないはずなのに、同じに見えた。

 身体の奥から冷たいものが這い上がる。

「古賀りずの兄です」

 受付で名前を言う。

 住所を聞かれる。生年月日を聞かれる。

 答えられた。

 書類にも名前を書けた。

 前は何も分からなくなったのに、今回はできてしまった。

 それが嫌だった。

 こんなことに慣れたくなどなかった。

 処置中です、と告げられた。

 まだ生きている。

 その言葉だけに縋った。

 椅子へ座ることもできず、廊下を何度も往復した。

 スマートフォンが震える。

『今向かってる』

 セナからだった。

 ハルトは返信できなかった。

◇

 どれほど待ったのか分からない。

 十分だったのか。一時間だったのか。

 時間の感覚が消えた頃、扉が開いた。

 医師が出てくる。

 その顔を見た瞬間、ハルトは知ってしまった。

 聞く前に。

 言葉になる前に。

「……ご家族の方ですね」

「はい」

「できる限りの処置を行いましたが――」

「待ってください」

 自分でも、なぜ止めたのか分からなかった。

 その先を聞かなければ、まだ終わらない気がした。

「まだ、十二歳なんです」

 医師は何も言えなかった。

「昨日まで普通だったんです」

 声が震える。

「昨日、誕生日祝ってくれて……」

 言葉が続かない。

 医師が静かに頭を下げた。

「……申し訳ありません」

 世界から音が消えた。

◇

 りずは眠っているように見えた。

 そう思いたかった。

 髪。小さな手。昨日まで何度も見ていた顔。

 けれど呼吸はない。

「りず」

 呼ぶ。

 返事はない。

「……おい」

 もう一度。

「帰るぞ」

 返事はない。

「遅くなるなって言っただろ」

 喉が詰まった。

「分かってるって……言っただろ」

 昨日までなら、うるさいと返してきた。

 今日なら、少しくらい遅れただけだと言ったかもしれない。

 何も返らない。

 ハルトはりずの手へ触れた。

 冷たかった。

 その瞬間、指を離した。

 現実を触ってしまったような気がした。

◇

 廊下へ出ると、警察官が待っていた。

 りずは青信号で横断歩道へ進もうとしていた。

 そこへ車が来た。

 運転手は急ブレーキを踏んだ。

 そして――。

「第三者に押された可能性があります」

 ハルトが顔を上げる。

「……押された?」

「複数の目撃証言があります。ただ、証言が一致していません」

「どういうことですか」

「人がいたという証言と、誰もいなかったという証言があります。人物の特徴についても……」

「防犯カメラは?」

 警察官がわずかに間を置いた。

「確認しています。ただ、事故直前の数秒間だけ映像に乱れがありまして」

「数秒……?」

 父と母の事故。

 信号の記録と証言が合わなかった数秒。

 記憶の底に沈んでいた会話が、突然浮かび上がった。

 偶然。

 そう言い切るには、胸の奥に嫌なものが残った。

 けれど今は考えられなかった。

 誰が。なぜ。

 そんなことより。

 りずがいない。

 その事実だけで、頭の中が埋まっていた。

◇

「こちら、所持品です」

 病院のスタッフから袋を渡された。

 りずのスマートフォン。財布。小さなポーチ。見覚えのある鞄。

 そして、神社の名前が入った新しい袋。

 ハルトはそれを取り出した。

 中には健康守が入っていた。

「……なんで」

 昨日、りずから誕生日プレゼントはもらっている。

 今日、一人で寄りたい場所があると言っていた。

『お兄ちゃん、頑張りすぎ』

『今日くらい仕事の顔やめて』

 全部がつながった。

 ハルトの手が震えた。

「……俺の?」

 誰も答えない。

 答えなど必要なかった。

 りずは自分のために、これを買いに行った。

 自分がりずを守らなければならなかったのに。

 守られようとしていた。

「俺が……」

 息が浅くなる。

「俺が守るって……」

 健康守を握る手に力が入った。

「言ったのに」

 声が崩れた。

「なんで一人で行かせたんだよ……」

 頭では分かっていた。

 十二歳の妹が一人で少し寄り道する。そんなことは普通だ。

 自分が悪いわけではない。

 そんな理屈は、何一つ心に届かなかった。

「俺が行けばよかった」

 一緒に行けば。

 待っていれば。

 仕事も大学も全部放り出して、ずっと隣にいれば。

 そんなことができるはずもないのに。

「俺が……守らないといけなかったのに……!」

 声が廊下に響いた。

 一年前には出なかった声だった。

 父と母が死んだ時は、りずがいた。

 泣いている妹を抱いて、自分が支えなければと思えた。

 今は、その妹がいない。

 立っている理由まで、一緒になくなった。

 膝から力が抜けた。

◇

「ハルト!」

 聞き慣れた声がした。

 セナだった。

 息を切らし、髪も少し乱れている。

 ハルトの手にあるお守りを見る。

 そして何も聞かず、近づいた。

「俺が……」

 ハルトは立とうとした。

 セナから離れようとした。

 今の自分を見られたくなかった。

「俺が悪い」

 セナが腕を伸ばす。

「違――」

 言いかけたハルトを、そのまま抱きしめた。

「離せよ……」

 力は入らなかった。

「俺が……守れなかった」

「うん」

 セナはそれだけ答えた。

「守るって言ったんだ……俺が……」

「うん」

「なのに……」

 その先は言葉にならなかった。

 セナは『あなたのせいじゃない』とは言わなかった。

 今それを言っても、ハルトには届かないと分かっていた。

 ただ抱きしめた。

 逃げようとする力さえなくなるまで。

 ハルトはセナの肩に顔を伏せた。

 声を殺すこともできなかった。

 泣いた。

 子供のように。

 父と母を失った夜に流せなかった分まで。

 何度呼んでも戻らない妹の名前を、何度も呼びながら。

◇

 夜が深くなっても、ハルトは病院を離れられなかった。

 スマートフォンを開く。

 昨日の写真があった。

 りずが中央。

 その左右に、自分とセナ。

 三人とも笑っている。

『三人の写真、意外と少ないじゃん』

 昨日の声が聞こえる気がした。

 手の中には、りずが買った健康守。

 自分を守るためのもの。

 写真の中では、りずが笑っている。

 現実には、もういない。

「……守れなかった」

 小さく呟いた。

 その言葉が、胸の奥へ沈んでいく。

 父も。

 母も。

 りずも。

 自分の大切な人は、守れない。

 なら、もっと。

 もっと強くならなければ。

 もっと気づかなければ。

 もっと、自分がやらなければ。

 その考えが間違っていることを、今のハルトには分からなかった。

 消えた窓ガラスに、廊下の景色が反射していた。

 ハルト。

 少し離れたセナ。

 そして、その奥。

 照明の届かない場所に、黒い歪みが一瞬だけ揺れた。

 振り返った時には、何もいなかった。

 ハルトはもう一度、健康守を握った。

 昨日まで三人だった。

 今日からは、二人だった。

 ――第5話「また」了。


ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!


まだ始まったばかりの物語ですが、こうして読んでいただけることが何よりの励みになっています。


もし物語を気に入っていただけたら、★評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。


これからもハルトたちの物語を、大切に描いていきます。

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