第4話 三人の家族
早く起きて!出かけるよ!。
それが、日曜日の朝一番にりずから言われた言葉だった。
「だからって、こんな朝から起こす必要ある?」
「もう九時」
「日曜の九時は朝だろ」
「知らない。早く準備して」
十二歳になったりずは、ベッドの横で腕を組んでいた。
第3話の夜、『今度の日曜空けてね』と言われた理由を、ハルトは結局教えてもらえなかった。
仕事のシフトは空けた。大学の予定もない。
だから久しぶりに寝られると思っていたのだが、その期待は妹によってあっさり潰された。
「今日くらい仕事の顔やめて」
「仕事の顔ってなんだよ」
「こういう顔」
りずが眉間に皺を寄せる。
「そんな顔してない」
「してる」
言い返そうとしたところで、インターホンが鳴った。
嫌な予感がした。
「セナちゃん来た!」
「共犯かよ」
玄関へ向かうりずの背中を見ながら、ハルトは諦めて起き上がった。
◇
「誕生日おめでとう」
玄関に立っていたセナは、開口一番そう言った。
「……ああ、ありがとう」
「忘れてた?」
「いや」
「忘れてた顔」
「覚えてたって」
本当は、ほとんど意識していなかった。
二十歳。
昔なら何か特別に感じたのかもしれない。
けれど今のハルトにとっては、大学も仕事も、りずの学校も、明日の予定も、昨日と同じように続いていく一日にすぎなかった。
「今日はハルト慰労会です」
りずが宣言する。
「誕生日会じゃないの?」
「両方」
「慰労されるほど何もしてないけど」
りずとセナが同時にハルトを見る。
「……何」
「そういうところ」
セナが言った。
「今日は反論禁止」
「そんなルールある?」
「今できた」
りずが満足そうに頷いた。
こうしてハルトは、本人の意思とは関係なく休日へ連れ出されることになった。
◇
三人で街を歩くのは久しぶりだった。
大学、医学部、学校、アルバイト。
三人とも生活の時間が少しずつずれて、家で夕食を囲むことはあっても、一日何も考えずに出かける機会は減っていた。
「セナちゃん、こっちの方が似合う」
衣料品店で、りずがセナの前に淡い色の服を掲げる。
「私の買い物じゃないんだけど」
「見るだけ」
「それ、買う流れのやつだろ」
ハルトが言う。
「お兄ちゃんは黙って荷物持ち」
「俺の扱いだけ雑じゃない?」
「今日の主役だから」
「主役って荷物持つんだ」
「働き者だから」
「それ慰労する気ある?」
セナが吹き出した。
ハルトも結局笑う。
何を買うでもない店に入り、必要のない雑貨を見て、りずが試した帽子を二人で笑った。
何も生まない時間だった。
ハルトは、こういう時間をずいぶん長く過ごしていなかったことに気づいた。
◇
りずが試着室から出てきた時、襟が少し折れていた。
「ちょっと待って」
セナが近づき、襟を直す。ついでに乱れた髪も指で整えた。
「じっとして」
「はい」
りずは妙に素直だった。
鏡越しに二人を見ていたハルトが笑う。
「お前、セナの言うことは聞くよな」
「だってセナちゃん優しいもん」
「俺も優しいだろ」
「種類が違う」
「種類?」
りずは鏡の中のセナを見上げた。
「セナちゃん、もうお姉ちゃんみたい」
セナの手が一瞬止まる。
「みたい、って何」
「じゃあ、お姉ちゃんでいい?」
「え、それは……」
否定するのかと思った。
けれどセナは少しだけ頬を緩めた。
「勝手に家族増やすなよ」
ハルトが言う。
「嫌なの?」
「え?」
りずの問いに、ハルトが詰まる。
セナまでこちらを見る。
「……そういう意味じゃない」
「じゃあいいじゃん」
りずは簡単に結論を出した。
セナは何も言わなかった。
ただ、少し嬉しそうだった。
◇
店を出たところで、小さな泣き声が聞こえた。
ベンチの端に、小学校低学年くらいの女の子が座っている。
足元には紙袋。中身が少しこぼれていた。
近くに母親らしい女性がいる。怒っているわけではない。けれど女の子は俯いたまま、『私が落としたから』と何度も呟いていた。
セナが足を止めた。
「ちょっと待ってて」
女の子のところへ行き、目線の高さまでしゃがむ。
すぐには何も言わなかった。
慰めるでもなく、無理に笑わせるでもない。
ただ隣にいた。
しばらくして、女の子が自分から何かを話した。
セナは頷く。
また少し話す。
それだけだった。
やがて母親が頭を下げ、女の子も少しだけ顔を上げた。
戻ってきたセナに、ハルトが聞く。
「何話してたの?」
「別に。ちょっと一緒にいただけ」
「それだけ?」
「それだけ」
ハルトはそれ以上聞かなかった。
昔から、セナはそういう人だった。
誰かを無理やり立ち上がらせようとはしない。
立てるようになるまで、ただ近くにいる。
◇
「写真撮ろ」
昼を少し過ぎた頃、りずが突然言った。
「急だな」
「三人の写真、意外と少ないじゃん」
言われてみれば、そうだった。
三人で過ごす時間は増えたのに、三人が同じ写真に写っているものはほとんどない。
近くにいた人へ頼み、スマートフォンを渡した。
「りず真ん中ね」
「なんで?」
「言い出した人だから」
「じゃあお兄ちゃんこっち。セナちゃんこっち」
りずを中央に、ハルトとセナが左右へ並ぶ。
「もっと寄ってください」
撮影を頼んだ人に言われ、三人が少し近づいた。
「お兄ちゃん固い」
「普通だろ」
「笑って」
「笑ってる」
「笑ってない」
りずがハルトの腕を引いた。
「ちょっ――」
その瞬間、シャッター音が鳴った。
確認すると、りずは満面の笑顔。セナも笑っている。
ハルトだけが、腕を引かれて少し体勢を崩しながら笑っていた。
「これがいい」
りずが即決した。
「撮り直さない?」
「これがいい」
「私もこれ好き」
セナまで賛成する。
「……二対一ずるくない?」
どこかで言ったような言葉だった。
三人がまた笑った。
その一枚が、後になって何度も思い出す写真になることを、まだ誰も知らなかった。
◇
りずが飲み物を買いに離れた時、ハルトとセナは二人でベンチに座っていた。
「こういう日、久しぶりだね」
「最近ずっとバタバタしてたからな」
「ハルトが仕事入れすぎなんだけどね」
「今日は言わない約束じゃなかった?」
「りずが決めたルールだから」
「ずる」
二人で笑う。
少し離れた自販機の前で、りずが何を買うか真剣に悩んでいる。
セナはその姿を見ながら、ぽつりと言った。
「こういう日がずっと続けばいいね」
ハルトもりずを見る。
父と母がいなくなって、何もかも終わったように思った時期があった。
けれど終わらなかった。
三人で食事をして、笑って、喧嘩して、また朝が来る。
なら、この先もきっと。
「続くよ」
ハルトは迷わず答えた。
セナがこちらを見る。
「うん」
小さく笑った。
◇
夕方、りずが予約していた小さな店へ入った。
テーブルには、小さなケーキが用意されていた。
「二十歳、おめでとう」
「ありがとう」
「あと、いつもお疲れさま」
「それ本人に言う?」
「慰労会だから」
りずが胸を張る。
セナからは実用的な小物。りずからは、少し不格好に包まれたプレゼント。
中身は高価なものではない。
それでよかった。
「お兄ちゃん、今日仕事しなかったね」
「休みなんだから当たり前だろ」
「えらい」
「基準低すぎない?」
「普段が普段だから」
セナがさらりと言い、りずが笑う。
「二人してさあ……」
ハルトも笑った。
特別な言葉はなかった。
大げさな感謝も、未来の約束も。
ケーキを食べ、りずがクリームを少し服につけ、セナが呆れながら拭き、ハルトが笑った。
それだけの誕生日だった。
だからこそ、ハルトは久しぶりに心から楽しいと思った。
◇
帰り道、りずは何度も昼間の写真を見返していた。
「今日楽しかった」
「なら仕事休んだ甲斐あった」
「だから仕事の話しない」
「今日はりずの勝ち」
セナが笑う。
「なんの勝負だよ」
街の灯りの中を三人で歩く。
りずが中央。左右にハルトとセナ。
昼間に撮った写真と同じ並びだった。
ただ歩いているだけなのに、妙にしっくりくる。
三人の家族。
誰かがそう呼んだわけではない。
けれど、もうその言葉を否定する理由はなかった。
◇
翌日。
学校から帰る時間を確認していたハルトに、りずが何気なく言った。
「明日じゃなくて、今日ちょっと寄りたいところあるから、先帰って待ってて」
「どこ」
「すぐそこ」
「何しに?」
「秘密」
「また?」
「すぐ帰るって」
以前のハルトなら、場所を聞いて一緒に行こうとしたかもしれない。
けれど、りずはもう十二歳だ。
何でも自分がついていくことが、守ることではない。
「遅くなるなよ」
「分かってる」
りずは笑って手を振った。
ハルトも手を上げる。
それが、その日の何気ない別れだった。
◇
りずが向かったのは、駅前から少し離れた小さな神社だった。
誕生日の日、兄へ渡したプレゼントとは別に、どうしても欲しいものがあった。
社務所の前に並ぶ、小さなお守り。
健康守。
りずはそれを手に取った。
『お兄ちゃん、頑張りすぎ』
数日前、自分で言った言葉を思い出す。
兄はいつも、自分を守ろうとする。
なら自分も、少しくらい兄を守りたかった。
「これください」
小さなお守りを鞄へしまう。
帰ったら渡そう。
今度はちゃんと、無理しないでと言おう。
そんなことを考えながら、りずは神社を出た。
◇
夕方の横断歩道。
人通りはある。
車も走っている。
信号が変わるのを待ちながら、りずは鞄の中のお守りへ一度だけ触れた。
兄は喜ぶだろうか。
それとも、『子供がそんな心配するな』と笑うだろうか。
たぶん後者だ。
りずは小さく笑った。
その背後。
人の流れの中に、一つだけ動かない影があった。
誰かが立っている。
男なのか、女なのかも分からない。
りずは気づかない。
信号機を見る。
画面の端――いや、視界の外側で、黒い何かがわずかに歪んだ。
人影が、一歩。
りずとの距離を縮める。
信号が青へ変わった。
――第4話「三人の家族」了。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
まだ始まったばかりの物語ですが、こうして読んでいただけることが何よりの励みになっています。
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これからもハルトたちの物語を、大切に描いていきます。




