第3話 兄だから
両親がいなくなってから、一年ほどが過ぎた。
古賀家の形はほとんど変わっていない。同じ玄関。同じ食卓。同じソファ。ただ、冷蔵庫に貼られているものは変わった。
りずの学校予定。その隣にハルトの大学の時間割とアルバイトのシフト。端にはセナの字で『牛乳』『卵』『洗剤』と書かれた小さなメモ。
棚には父と母の写真がある。忘れたわけではない。悲しみが消えたわけでもない。ただ、人間は悲しみながらでも朝になれば起きて、腹が減れば食べて、学校へ行かなければならないらしい。
「今日も遅い?」
制服姿のりずが、焼いたパンをかじりながら聞いた。
「たぶん。先に寝てていいから」
「昨日もそれ言った」
「昨日は昨日」
「今日も今日で遅いんでしょ」
十一歳になった妹は、以前より少しだけ口が達者になった。
「帰れる時は帰るって」
「それ、帰れない人が言うやつ」
「どこで覚えたんだよ」
りずは答えず牛乳を飲んだ。
「じゃ、行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
玄関を出る直前、ハルトは一度だけ振り返った。りずはもう食器を片付け始めている。
大丈夫。ちゃんと生活できている。
そう確認してから、ハルトは家を出た。
◇
大学の講義を受ける。空き時間には警察官採用試験の参考書を開く。夕方になればアルバイトへ向かう。授業が少ない日は、別のシフトも入れた。
父が会社を残していたからといって、明日から食べるものにも困るような生活ではない。
それでもハルトは働いた。
りずがこれから中学へ進み、高校へ行き、その先を選ぶ時。金のせいで何かを諦めさせたくなかった。
それ以上に、何もしていない時間が嫌だった。
止まると考えてしまう。あの夜の電話。白い廊下。動かなくなった父と母。
だから勉強した。働いた。疲れていれば、余計なことを考えずに済んだ。
電車の座席で目を閉じたつもりが、次の駅まで眠っていた。
スマートフォンが震える。『牛乳なくなった』。りずからだった。
『帰り買う』。返信だけはすぐにした。
◇
「ただいま」
「おかえり」
夜。玄関を開けると、りずの声が返ってきた。その二言だけで、家に帰ってきたのだと思える。
「ご飯は?」
「食べた」
「嘘」
「なんで」
「お兄ちゃん、嘘つく時ちょっと早口になる」
「……そんな癖ないだろ」
「ある」
断言された。
反論しようとしたところで、インターホンが鳴った。
「セナちゃん!」
「こんばんは」
扉の向こうのセナは、大きなスーパーの袋を提げていた。肩には医学部の教材が詰まった鞄もある。
「こんな時間にどうした」
「これ」
「多くない?」
「三人分」
「いや、そうじゃなくて」
「冷蔵庫見た」
「勝手に見るなよ」
「見られて困るもの入ってなかったでしょ」
「ほんと何もなかったよ」
「お前も見るな」
りずが笑い、セナも笑った。その声を聞いて、ハルトはようやく肩から少し力を抜いた。
◇
三人で夕食を作ることになった。値引きされた肉と野菜、それに卵。豪華ではないが三人には十分だった。
「りず、それ味見何回目?」
「確認」
「さっきも確認してたよな」
「品質管理だから」
「どこでそんな言葉覚えたんだよ」
セナは笑っていたが、ふとハルトの顔を見ると表情を変えた。
「最近、ちゃんと寝てる?」
「寝てる」
「何時間」
「……」
「ほら」
「別に平気だって」
「大学行って、勉強して、そのあと仕事でしょ」
「毎日じゃない」
「昨日も遅かったよ」
りずまで加わる。
「お前はどっちの味方だよ」
「セナちゃん」
「即答かよ」
少し笑いが起きた。それでもセナの表情は戻らない。
「りずのこともあるし。俺がやれば済むことだから」
セナの手が止まった。
「守るって、自分を壊すことじゃないでしょ」
静かな声だった。責めるような言い方ではない。
「壊れてない」
「今はね」
「……大げさなんだよ」
「そうだといいけど」
セナはそれ以上言わず、また包丁を動かし始めた。
ハルトも鍋へ視線を戻した。これ以上話せば心配させるだけだと思った。
その考え自体が、セナの言いたかったことなのだとは気づかなかった。
◇
出来上がった料理は、少しだけ味が濃かった。
「りず、味見しすぎたからじゃない?」
「味見と味の濃さ関係ないでしょ」
「途中で足しただろ」
「ちょっとだけ」
「犯人お前じゃん」
三人で笑った。
父と母の席は、今もそこにある。けれど今夜は、その空席だけを見つめる者はいなかった。
りずが学校で先生に注意された話をし、セナが医学部の課題の多さに文句を言い、ハルトはバイト先で注文を聞き間違えた話をした。
何も起きない話ばかりだった。
だから、よかった。
「これ三人で作ったってことは、三人の料理だね」
「そのまんまだな」
「じゃあもう三人で住めばいいじゃん」
ハルトとセナの箸が同時に止まった。
「……りず」
「なに?」
「お前、そういうのどこで覚えるんだよ」
「何の話?」
本当に分かっていない顔だった。
セナが視線を逸らす。ハルトも水を飲んだ。
りずだけが不思議そうに二人を見比べていた。
◇
「五分だけ」
食後、ハルトはそう言ってソファに座った。
次にりずが見た時には、もう眠っていた。
「……寝た」
「寝たね」
セナが小声で答える。
二人で毛布を広げ、ハルトへかけた。眠った顔には、起きている時よりはっきり疲れが出ていた。
「お兄ちゃん、頑張りすぎ」
「うん」
りずはしばらく兄を見ていた。
「……私のせいかな」
セナがりずを見る。
「違うよ」
「でも、私がいるから働いてるんでしょ」
「りずがいるから頑張れるのも本当だと思う。でも、それと無理していいのは別」
セナは眠るハルトへ目を戻した。
「ハルトが勝手に頑張りすぎるだけ」
「勝手に?」
「昔からそう」
少し呆れたように言ってから、セナは笑った。
「りずが笑ってる方が、ハルトは嬉しいと思うよ」
りずは兄の寝顔を見て、ほんの少しだけ頷いた。
◇
食器を片付けていたセナの手が、ふいに止まった。
視線が窓へ向く。
誰かに見られている。
そんな感覚が、一瞬だけ背中を撫でた。
セナはカーテンへ近づき、ほんの少し開ける。
暗い住宅街。街灯。風に揺れる木。
誰もいない。
「どうしたの?」
りずが聞いた。
「……ううん。なんでもない」
カーテンを閉じる。
胸に残った小さな違和感も、一緒に閉じ込めるように。
◇
ソファでは、ハルトがまだ眠っていた。
毛布にくるまった兄を見て、りずが何かを思い出した。
「あ、お兄ちゃん。今度の日曜空けてね」
「……なんで」
目も開けずに返事が来る。
「まだ秘密」
「仕事……」
「空けて」
今度は少し強い声。
ハルトが薄く目を開け、妹を見る。
「……分かった」
「絶対ね」
「はいはい」
りずは満足そうに笑った。
その横で、セナも小さく笑う。
三人で笑える夜は、もう一度ちゃんと作れていた。
失ったものが戻ったわけではない。
それでも、残ったものだけで人はまた家族になれる。
ハルトはまだ、その幸福を守る方法を知らなかった。
――第3話「兄だから」了。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
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