第2話 突然
「……はい」
ハルトが通話ボタンを押すと、耳元に知らない男の声が届いた。
「古賀賢人さんのご家族の方でしょうか」
「はい。……息子のハルトです」
一瞬の間。
「賢人さんと、えりさんが交通事故に遭われました。現在、お二人とも病院へ搬送されています」
事故。
その二文字だけが、ほかの言葉から切り離されて頭の中へ落ちた。
「……二人とも?」
自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。
視界の端には、父が飲みかけた水の入ったコップ。母が帰ってから片付けるつもりだった小物。
ついさっきまで、それらは二人が戻ってくることの証明だった。
病院の名前を告げられる。ハルトはメモを取ろうとしたが、指先がうまく動かなかった。
◇
「誰から?」
りずが部屋から出てきていた。
「……父さんと母さん、事故に遭ったって」
「事故?」
「病院行くぞ」
りずの顔から眠気が消える。
「大丈夫だよね?」
ハルトは一拍、答えられなかった。
大丈夫だという根拠はない。
それでも妹は、自分を見ている。
「……大丈夫」
それが、この夜最初についた嘘だった。
◇
家を出る前にセナへ連絡した。
「ハルト、りず? どうしたの」
「父さんと母さんが事故に遭った」
電話の向こうで息を呑む音がした。
「病院は?」
「今から行く」
「私も行く」
「でも――」
「行く」
短い言葉だった。
理由も説明もなかった。
それでもハルトには、それで十分だった。
◇
病院の廊下は、妙に白かった。
床も、壁も、天井の光も。
消毒液の匂い。自動ドアの音。遠くを通るストレッチャーの車輪。壁の時計の秒針。
りずはずっとハルトの手を握っていた。
受付で住所を聞かれた時、ハルトは一瞬、自分がどこに住んでいるのかさえ分からなくなった。
セナが黙って、落としかけた書類を拾った。
しばらくして、白衣の医師が三人の前に立った。
その表情を見た瞬間、ハルトの中で何かが沈んだ。
「……できる限りの処置を行いました」
医師は言葉を選んでいた。
「お二人とも、搬送時の状態が非常に厳しく……」
「……お母さんは?」
りずが聞いた。
医師はすぐには答えなかった。
「……申し訳ありません」
りずの小さな手が、痛いほどハルトの指を握った。
医師はその後も何かを説明していた。
けれど、ほとんど耳に入らなかった。
◇
白いシーツの向こうに、父と母がいた。
父の手。
母の髪。
見覚えのある服。
どれも知っているものなのに、何かが決定的に違っていた。
動かない。
呼吸をしていない。
「お母さん……おとうさん……」
りずが呼んだ。
返事はない。
「……起きてよ」
もう一度。
それでも何も返らない。
りずの膝から力が抜けた。
「お兄ちゃん……」
ハルトは妹を抱きしめた。
泣かなければと思った。
父と母が死んだのだから、悲しいはずだった。
なのに涙が出ない。
代わりに頭の中では、別の言葉だけが回っていた。
りずがいる。
自分がいる。
自分が何とかしなければ。
「大丈夫。俺がいる」
妹へ向けた言葉だった。
同時に、自分へ言い聞かせた言葉でもあった。
◇
廊下へ出た時、少し離れた場所から警察官の声が聞こえた。
「記録だと、切り替わった後なんですが……」
「目撃者は青だったって?」
「はい。数秒だけ、どうも合わなくて」
交差点での衝突事故。
相手の運転手は生きているらしい。
信号がどうだったのか。誰に責任があるのか。
そんな話をしているのだろう。
ハルトは振り返らなかった。
今は、どうでもよかった。
◇
数日後。
父と母の葬儀には、多くの人が来た。
父の会社の人間。取引先。近所の人。ハルトの知らない大人たちまで、次々に頭を下げた。
「ご愁傷さまです」
「本当に立派な方でした」
何度も同じような言葉を聞いた。
そのたびにハルトも頭を下げた。
気づけば、どう返事をしたのかさえ覚えていなかった。
りずは泣き疲れ、途中からほとんど喋らなくなった。
セナはずっと近くにいた。
けれど必要以上に声をかけることはなかった。
水が必要なら持ってくる。
りずが座れば、その近くにいる。
ハルトが誰かに呼ばれれば、黙って妹のそばへ移る。
それだけだった。
それが、ありがたかった。
◇
葬儀を終えた夜。
食卓には三人がいた。
ハルト。
りず。
セナ。
数日前まで、そこには五人いた。
父の席と母の席だけが、ぽっかりと空いている。
食卓に並ぶのは、簡単に用意した料理だけだった。
箸が器に触れる音が、やけに大きい。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「……なんでもない」
りずの視線が、空いた席へ向いた。
ハルトは何か言おうとした。
ちゃんと食べろ。
そう言うつもりだった。
けれど、自分の箸もずっと止まっていることに気づいた。
言葉は出なかった。
◇
りずが眠ったあとも、セナは帰らなかった。
ハルトは居間に座ったまま、何をするでもなく床を見ていた。
病院でも。
葬儀でも。
一度も泣かなかった。
泣いている場合ではないと思っていた。
りずがいる。
自分がしっかりしなければならない。
その考えだけで、ここまで来た。
隣に座ったセナも、何も言わなかった。
やがて、指先が触れた。
セナがハルトの手を握る。
親指で、一度だけ撫でる。
数日前と同じ仕草だった。
その瞬間。
『ハルト、帰ったらさっきの続き聞かせてね』
『うん。待ってる』
母の声が戻った。
『帰って早々、忙しいな』
父の笑い声。
湯気の向こうの食卓。
五人分の席。
全部が一度に戻ってきた。
「……待ってるって、言ったんだ」
声が震えた。
セナは手を離さない。
「帰ってくるって……思ってた」
頬に何かが落ちた。
一滴。
また一滴。
ハルトは声を上げなかった。
ただ、止めようとしても止まらなかった。
視界が滲み、俯いたまま涙だけが落ち続ける。
セナは「泣いていい」とも、「大丈夫」とも言わなかった。
ただ、手を握っていた。
それでよかった。
◇
しばらくして、ハルトはりずの部屋を覗いた。
妹は泣き疲れた顔で眠っていた。
小さな寝息を確かめる。
「俺が守る」
誰に言うでもなく、ハルトは呟いた。
「あいつだけは、絶対に」
「うん」
後ろにいたセナが答える。
そして少しだけ間を置いた。
「でも、ハルトも一人じゃないよ」
ハルトは返事をしなかった。
否定もしなかった。
ただ、眠る妹を見ていた。
◇
夜の古賀家には、まだ灯りが残っていた。
静かな住宅街。
初秋の風が街路樹を揺らす。
少し離れた、街灯の届かない場所。
そこに何かが立っているように見えた。
人なのか。
影なのか。
ただ暗闇がそう見せているだけなのか。
輪郭はすぐに夜へ溶けた。
家の中にいる三人は、それに気づかない。
昨日までいた人がいない。
それだけで世界は、同じ形をしているのに、もう同じ場所ではなかった。
――第2話「突然」了。
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