第1話 帰る場所
九月の夕暮れは、夏の名残を惜しむように長かった。
住宅街の屋根を橙色の光が滑り、電線の向こうでは薄い雲がゆっくりと紫へ染まり始めている。部活帰りの学生が自転車で坂を下り、どこかの家から夕飯の匂いが流れてきた。
古賀陽人――ハルトは、肩にかけた鞄を持ち直しながら見慣れた道を歩いていた。
高校三年生になって半年。進路、受験、将来。最近は学校でも家でも、そんな言葉を聞くことが増えた。
けれど家の前まで来ると、そんなものはいったんどうでもよくなる。
玄関の向こうから笑い声が聞こえた。食器の触れ合う音。母の声。それに混じって、聞き慣れた少女の声もする。
ハルトは無意識に少しだけ口元を緩め、扉を開けた。
「ただいま」
「おかえり! 遅い!」
返事とほとんど同時に、妹のりずが廊下へ飛び出してきた。
「……第一声それ?」
「だってお腹すいた」
「先に食えばいいだろ」
「セナちゃんが待つって」
「え、私のせい?」
台所から顔を出したセナが目を丸くした。黒に近い暗茶色の髪と柔らかな顔立ち。家族でもないのに、この家の台所に立っている姿が妙に馴染んでいる。
それも当然だった。セナとは幼い頃から一緒だった。高校生になってから恋人になった今でも、彼女が古賀家にいること自体は誰も特別だと思っていない。
「だって『もうすぐ帰ってくると思う』って三回くらい言ってた」
「りず。余計なこと言わなくていいから」
セナの頬がほんの少し赤くなる。
「……へえ」
「なに、その顔」
「別に」
「はいはい。玄関でやってないで手洗ってきなさい」
母――えりの声が飛んでくる。
「帰って早々、忙しいな」
居間では父の賢人がテレビから目だけを向けて笑っていた。
「父さんは絶対面白がってるだけだろ」
「よく分かったな」
「分かるわ」
ハルトは笑った。
いつも通りだった。
それがどれほど大切なことなのか、この時の彼はまだ知らなかった。
◇
食卓には湯気の立つ料理が並んでいた。
会社を経営する父と、その仕事を秘書として支える母。高校三年生のハルトとセナ。そして八歳ほど年の離れたりず。五人で食卓を囲むことは珍しくない。
「母さん、もう座れば? それ俺が持ってくる」
「帰ってきたばかりでしょ。座ってなさい」
「やらせとけばいいだろ。本人がやりたいんだから」
「あなたはすぐ甘やかす」
そんな両親の横で、りずは皿の野菜を箸でつついていた。
「お兄ちゃん、これいらない」
「野菜くらい食え」
「セナちゃんにあげる」
「私を処理係にしないで」
「ほら。ハルトはりずに甘いからな」
「どこが」
「めちゃくちゃ甘い」
「うん、甘い」
「……二対一はずるくない?」
「三対一じゃない?」
「母さんまで?」
笑い声が食卓を満たす。
ハルトはえりの皿がまだ空なのに気づいて料理を寄せた。その直後、自分の皿にも一品増える。
セナだった。
ハルトが喋ってばかりでほとんど食べていないことに気づいたらしい。
窓の外では夕日が沈みかけている。湯気の向こうに父がいて、母がいて、妹がいて、セナがいる。
写真に残すほど特別ではない。
だからこそ、誰もこの時間が終わることなど考えていなかった。
◇
「そういえばハルト。進路の紙、今週までじゃなかったか?」
食事が落ち着いた頃、賢人が言った。
「来週。まだ出してない」
「警察官でしょ?」
「なんでお前が答えるんだよ」
「ずっと言ってるじゃん」
「小さい頃から変わってないよね」
セナも笑う。
「理由も変わってないのか?」
ハルトは少し考えた。
「……目の前で何かあった時、何もできないの嫌だから」
正義の味方になりたいわけではない。ただ、身近な誰かが困っている時、何もできない自分にはなりたくなかった。
「じゃあ私のこと守ってね」
「お前はまず道路飛び出すのやめろ」
「飛び出してないし!」
真面目になりかけた空気が一瞬で崩れる。
「りずは? 将来なにになるの?」
「看護師」
「初耳なんだけど」
「この前決めた」
「なんで?」
りずは少し得意そうに胸を張った。
「お兄ちゃん警察官になるんでしょ。怪我して帰ってきたら私が治す」
「……縁起でもないな」
「じゃあ怪我しないで帰ってきて」
「それが一番だ」
賢人が笑う。
小学生の妹が思いついた、単純な未来の話。それでもハルトは一瞬だけ、りずの顔を見た。
「セナちゃんは?」
「私?」
「お医者さんになるんでしょ?」
「まだ『なれたら』だけどね」
「前より本気じゃん」
「誰かさんがすぐ無理するから」
「俺?」
「他に誰がいるの」
りずが嬉しそうに言う。
「じゃあ最強じゃん。お兄ちゃんが警察で、私が看護師で、セナちゃんがお医者さん」
「怪我する前提なのはどうなんだ」
笑いが起きる。
りずは少し考え、もっと簡単な答えを見つけた。
「じゃあ大人になっても、みんな近くに住めばいいじゃん」
「なんでお前が決めるんだよ」
「だってその方が楽でしょ」
「私は賛成」
セナがさらりと言った。
「え?」
「……なに」
視線が合い、セナが先に目を逸らす。
「いや、別に」
向かいでは、りずだけがにやにやしていた。
そんな未来が、本当に来るのだと思っていた。
◇
食後、ハルトとセナは並んで食器を片付けていた。
蛇口から流れる水の音。その向こうから、家族の笑い声が聞こえる。
「……今日、眠かったでしょ」
「なんで分かるんだよ」
「分かるよ」
「よく見てるんだな」
「そりゃそうでしょ」
答えた直後、セナが少し黙った。自分で言ってから恥ずかしくなったらしい。頬に薄く赤みが差す。
その指が、そっとハルトの手に触れた。
握って、親指で一度だけ撫でる。
昔から、彼女はこうだった。
無理をしていないかと問い詰めない。ハルトが「大丈夫」と言ってしまうことを、よく知っているから。
「……ありがと」
「何が?」
「なんとなく」
「変なの」
セナは小さく笑った。
ハルトはその横顔を、ほんの少しだけ長く見ていた。
◇
えりのスマートフォンが鳴ったのは、その少し後だった。
「もしもし。……うん。今?」
声がわずかに変わる。母親の顔から、仕事の顔へ。
「会社?」
「うん。明日の現場の件、先方が今夜確認したいって。資料も会社にある」
「明日じゃ駄目なのか」
「向こうが朝一で動くみたい」
賢人は小さく息を吐いた。
「……分かった。俺も行く」
「二人とも?」
「ちょっと顔出すだけ。そんな遅くならないよ」
父が地域の不動産・建設関連会社を経営し、母がその仕事を支えている以上、夕食後に急な連絡が入ることは珍しくない。
だから誰も気に留めなかった。
玄関でえりが振り返る。
「冷蔵庫にプリンあるから。りず、一人で全部食べないでね」
「なんで私だけ言われるの」
「前科あるからだろ」
「一回だけ!」
「ハルト。セナちゃん暗くなる前に送ってやれよ」
「言われなくても」
「近いから大丈夫ですよ」
また笑いが起きる。
えりはドアノブへ手をかけ、ふと思い出したようにハルトを見た。
「ハルト、帰ったらさっきの続き聞かせてね」
「うん。待ってる」
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
扉が閉まる。
少しして、車のエンジン音が遠ざかっていった。
それだけだった。
本当に、それだけのことだった。
◇
「送るよ」
「近いから大丈夫」
「知ってる」
「じゃあなんで」
「彼氏だから?」
「……疑問形なんだ」
「いや、なんか言ってて恥ずかしくなった」
「自分で言ったくせに」
セナが吹き出した。
二人は並んで歩く。昼間にはまだ夏の熱が残っていたが、夜風にはもう秋の匂いが混じっていた。
「警察官、本当に目指すんだね」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ受かったわけじゃないし」
「じゃあ私は先に医者になる」
「何年かかると思ってんだよ」
「じゃあ待ってて」
セナは前を向いたまま言った。
冗談のようにも聞こえたし、少しだけ本気にも聞こえた。
「……うん」
分かれ道でセナが数歩進み、振り返る。
「じゃあ、また明日」
「おう。また明日」
セナが手を振る。ハルトも返す。
この夜の景色に、不吉なものは何もなかった。
少なくとも、ハルトにはそう見えていた。
◇
家へ戻ると、りずは自室へ戻ったらしく、さっきまで賑やかだった家が急に静かになった。
食卓は片付いている。ただ、賢人の飲みかけの水と、えりが後で片付けるつもりだった小物だけが残っていた。
誰かが戻ってくることを前提にした、何でもない光景だった。
ハルトがソファへ腰を下ろした時、スマートフォンが震えた。
知らない番号。
「……誰だ?」
一度。
二度。
着信音が静かな部屋に響く。
ハルトは通話ボタンへ指を伸ばした。
その瞬間、消えたテレビの黒い画面に室内がぼんやりと映り込んだ。
ソファに座る自分。
食卓。
暗い窓。
そして、そのさらに奥。
人影にも見える。
ただの歪みにも見える。
黒い、何か。
けれどハルトは振り返らない。
それに気づくこともない。
指先が画面に触れた。
「……はい」
返事をした瞬間、部屋の空気がひどく冷たくなったような気がした。
――第1話「帰る場所」了。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
まだ始まったばかりの物語ですが、こうして読んでいただけることが何よりの励みになっています。
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これからもハルトたちの物語を、大切に描いていきます。




