第15話 アイリス
近隣領から客人がやってきたのは、それから数日後だった。
屋敷の正面に馬車が止まり、大人たちが挨拶を交わす。
訪れたのは、隣接するセレヴィア子爵家だった。
「久しぶりだな、エドガー」
「ああ。街道の件も含めて、今日はゆっくり話したい」
アルベルトと握手を交わしたのは、セレヴィア子爵エドガー。ダークブラウンの短髪に自然な無精髭を残した、穏やかな目の男だった。
「アナ、また会えて嬉しいわ」
「私もよ、リディア。長旅だったでしょう?」
その隣では、リディア・セレヴィアがアナと親しげに言葉を交わしている。柔らかなブラウンの髪を低くまとめた、落ち着いた雰囲気の女性だった。
領地の話をする父親たちと、久しぶりの再会を喜ぶ母親たち。その間から、少女が一歩前へ出た。
ハルトもアナに呼ばれ、アルベルトとルークの隣に立っていた。
「こちらが次男のハルトです」
「ハルトです。よろしくお願いします」
エドガーとリディアの娘は、ハルトと同じくらいの年頃だった。
赤みを帯びた栗色の髪。緑と琥珀の間のような明るい瞳。
「アイリスです」
「よろしく」
それだけ。
少なくとも、その時は。
◇
大人たちの話が始まると、ハルトはいつもの庭へ戻った。
一、二、三。
木剣を振る。足を動かす。構える。
その日、視界の端にアイリスがいた。少し離れた場所からこちらを見ている。
目が合うと、彼女は視線を逸らした。
翌日も。また次の日も。
セレヴィア家は街道や交易の話もあり数日滞在するらしく、アイリスは何度かハルトの訓練を見ていた。
そして何度目かに目が合った日、とうとう歩いてきた。
「ねえ」
「何?」
「それ、毎日やってて楽しいの?」
ハルトの木剣が止まった。
「……え?」
「毎日ずっと同じことしてるでしょ。楽しいの?」
最近は「すごい」「強い」と言われることには慣れ始めていた。
でも、楽しいのかと聞かれたことはなかった。
「……楽しいかどうかでやってない」
「じゃあ、なんでやってるの?」
また予想外の質問。
「……強くなりたいから」
「なんで?」
「まだ聞くの?」
「だって気になるから」
「守りたい人がいるから」
結局そう答えた。
アイリスは一瞬だけ黙る。
「ふうん」
「それだけ?」
「うん。答えてくれたから、もう分かった」
よく分からない。
でも、不思議と嫌ではなかった。
◇
「それ、持ってみてもいい?」
アイリスが木剣を指差した。
「重いよ」
「持てる」
「俺も最初そう思ってた」
「ハルトが持てるなら私も持てる」
「そういう問題じゃ――」
「貸して」
押しが強い。
仕方なく渡す。
「……重っ」
「ほら」
「でも持てる」
両手で構える。
「こう?」
「足が逆」
「じゃあこう」
「肩に力入りすぎ」
「細かい」
「聞いたのそっちだろ」
アイリスは構え直し、勢いよく振ろうとした。
「えいっ!」
木剣の重さに身体が引っ張られる。
「わっ――」
どすん。
尻もち。
一瞬の沈黙。
ハルトの口元が緩む。
「ふっ」
「笑った!」
「だって……」
「人が転んだのに笑うなんて失礼!」
「ごめん。でも、あんなに自信満々だったから」
「ハルトだって最初は転んだんでしょ?」
「なんで知ってるの」
「今の顔で分かった」
「分かるわけないだろ」
「分かったもん」
アイリスは立ち上がり、服についた草を払う。
その顔がまたおかしくて、ハルトはもう一度笑った。
「また笑った!」
「今のはアイリスの顔が――」
「もっと失礼!」
二人の声が庭に響いた。
◇
その日の午後。
ハルトとアイリスは庭の端を歩いていた。
「ハルト!」
少し離れた場所から領兵が声をかける。
「今日も訓練か、神童坊ちゃん!」
「その呼び方やめてよ」
男は笑って去っていった。
隣のアイリスが止まる。
「……神童?」
「気にしなくていい」
「もしかして、あなたが噂の神童?」
「……そう呼ばれてるだけ」
「火も水も使えて、剣もすごいっていう?」
「話が大きくなってる」
「でもハルトなんでしょ?」
「まあ……」
ハルトはほんの少し身構えた。
最近、この言葉を聞いた後に相手の目が変わることがある。
期待。驚き。遠慮。特別扱い。
けれど。
「じゃあ、ハルトでいい?」
「……え?」
「だって名前、ハルトでしょ? 私もアイリスでいいから」
「最初からアイリスって呼んでるけど」
「あ、そっか」
本人が先に笑った。
何も変わらない。
「神童って呼ばなくていいの?」
「呼んでほしいの?」
「いや」
「じゃあハルト」
「……うん」
家族以外から、肩書も期待も付けず、ただ名前だけを呼ばれた。
それが思ったより心地よかった。
◇
「こっち」
「どこ行くの?」
「いいところ」
アイリスが庭の先へ歩いていく。
屋敷から離れすぎない森の端。遠くには護衛の姿も見える。
「そっち道じゃないけど」
「道じゃないから行くの」
「意味分かんない」
「行けば分かる」
「兄さんも似たようなこと言ってたな……」
「何?」
「なんでもない」
草を踏み、木々の間を抜け、少し傾斜を上る。
やがて視界が開けた。
「ほら」
丘だった。
柔らかな草。遠くの領都。その向こうの山並み。
夕方の光が屋根や城壁を淡く照らしている。
風が吹き、アイリスの赤みのある栗髪が揺れた。
「きれいでしょ」
「……うん」
訓練でもない。魔法でもない。強くなるためでもない。
ただ景色を見る。
そんな時間を、最近ほとんど持っていなかった。
「決めた」
「何を?」
「ここ、私たちだけの場所にしよう」
「今日会ったばかりだけど」
「会ったのは何日か前」
「ちゃんと話したのは今日」
「じゃあ今日から」
「何それ」
「だめ?」
「……別に、いいけど」
「決まり!」
勝手に決まった。
でも、嫌ではなかった。
◇
丘に座って、アイリスは本当にどうでもいい話をした。
馬車で酔いそうになったこと。朝食に苦手なものが出たこと。庭で見つけた変な石。さっき転んだのは木剣が悪かったという主張。
「絶対、木剣が重すぎたの」
「最初に重いって言った」
「もう少し強く止めてくれてもよかったでしょ」
「止めたよ」
「足りなかった」
「それ俺のせい?」
「半分くらい」
「なんで」
また笑った。
自然に。
その瞬間、ほんの少しだけ前世の景色が浮かんだ。
父。母。りず。セナ。
前なら、笑った後に胸が痛むことがあった。
自分だけが生きて、また楽しく過ごしていいのか。
でも今は。
(この世界で笑うことに……)
隣ではアイリスがまだ木剣のせいにしている。
(少しずつ、罪悪感がなくなっていた)
忘れたわけじゃない。忘れるつもりもない。
ただ、今の自分が笑うことまで否定しなくていいのかもしれない。
そう思えるようになっていた。
◇
「そろそろ戻りましょう」
遠くから護衛が声をかけた。
「はーい!」
アイリスが立ち上がる。ハルトも続く。
もうすぐ屋敷。
そこでアイリスが振り返った。
「ねえ、ハルト」
「何?」
「明日も来る?」
ハルトは少しだけ考えた。
明日の朝は剣。その後は魔法。午後も訓練するつもりだった。
いつもなら予定を変える理由はない。
でも。
「……うん」
「ほんと?」
「うん」
アイリスが笑う。
「じゃあ約束ね」
「分かった」
彼女が先に走っていく。
ハルトはその背中を少しだけ目で追った。
帰る時間になったことを、ほんの少しだけ残念に思っている自分がいた。
それが何なのかは、まだ分からない。
ただ。
明日が少し楽しみだった。
ハルトも小さく笑って、その後を追った。
――第15話「アイリス」了。
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これからもハルトたちの物語を、大切に描いていきます。




